心・体・呼吸
この三つをヨガの三密といいます。
私たちは心を使い、体を使って生きています。
この心と体は別のモノのように見えて別モノではありません。
でも私たちには別のモノのように見えます。
「私」とか「人間」というものを全体的に一つの把握として認識することのできない私たちは、それを色々な断面側面で見て、それらの切り口をまとめて見ることで全体像を把握しようとしています。
「私」というものを把握するための大きな切り口の一つが「心」であり、また別の大きな切り口が「体」であるということです。
生命の表れである「私」の、見えるところを「体」と呼び、見えないところを「心」と呼んでいます。
「呼吸」は見えないようで見える、見えるようで見えない、そんな中間的なところに位置しているように見えます。
地上を這う生き物には人間の背の高さも高層ビルの高さも区別がつかないことでしょう。これと同じように私たちの頭脳にも、見えない、または把握することのできない事柄があります。影絵を見てその映像の元が手であるということは教えられなければ分かりません。物事の「カタマリ」の外も中も色も味もすべてを一つのモノとした「それ」として把握をすることはできません。味はこんな味で、色はこんな色で、形は・・・というように別な多くの把握をまとめることで全体を把握しているように思っています。それが私たちの頭脳の思考による把握の限界です。
物事の「カタマリ」そのものを把握することはできないが、それをスパッと二つに切り分けたその切り口を見ることはできます。心や体というものも、これと同じように、人間というカタマリ、自分というカタマリを別な切り口でみた其々の側面なのです。
心は、体で使っているのと同じ血液、同じ神経を使って働いています。同じ食べ物で生かされ同じ酸素を吸って働いています。お互いが影響をしあうというような親戚関係ではなく、同じものとして扱うことが大切です。そして、ここにもう一つ「呼吸」ということもこの「私」の把握のために欠かせないことです。
この三つの切り口から見た「私の側面」を足すことで私という全体に近寄ることができるのです。
私というものの表れは、体としての「私」であり、心としての「私」であり、呼吸としての「私」なのです。そしてそのどれでもあるのです。本質的には同じものであるけれど、現実に違うものとして見えるのだから、それぞれの面からアプローチをするのです。
でもそれが同じところに向かっての作業、すなわち、その三つの元にある生命の働きに向かっての行動や作業であるということを理解していないと大きな間違いを犯してしまいます。
これがヨガの三密です。
この三つの面から自分を見つめ、自分のあるべき姿をイメージし、そしてそこに近づく方法を考え、それを実践します。
何もしていないのに病気になったり治ったり、いわれもなく苦しんだり喜んだりしている、と私たちは思っています。そんな翻弄されている生活から抜け出すには、この三つの面のどこをどう変えていくことが必要なのかを自ら生命に訊き、発見し、それを実践することが必要です。
これがヨガをするということです。
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