このところ出かけるレッスンが減りましたが、声を使うレッスンは難しいと思っていたZOOMレッスンでも、大きなスピーカーを使って音質を良くすることで、意外に声の状態も聞き取れるようになりました。それでZOOMでも個人指導をするようになりました。でも一方通行になりがちなので、「質問はないですか」としょっちゅう問いかけをします。
先日のZOOMのときにも質問は? と問いかけたところ、こんな質問がありました。
「最近の記事では母音メソッドに触れられていないのですが、なぜですか?」
このNet記事は、トータルライフデザインの月刊会報に連載してた記事を編集しなおして掲載しているのですが、そのタイトルが「ナチュラル ヴォイス ヨガ入門」、そしてサブタイトルが「母音メソッドの考え方と実践方法」となっているのに、なぜ母音メソッドについて書かないのか?という質問です。
う~ん、痛いところを突くじゃないか。自分でも気にしているところなんだよ。
毎月のことですが、ここに何を書くかと思いを巡らしていると、私の意識は母音メソッドそのものではなく、その元になるところに移っていきます。毎回、いつもそうなります。
母音メソッドと体感空間
母音メソッドは20数年前に生まれたものですが、その気付きを得られたのは、「沖先生の発声体操」を学んでいたことと、「体感空間」という概念を自分の中で培っていたからです。今もこの空間意識によって呼吸を深くし、声を伸びやかにし、心をゆったりと豊かにすることができていますが、これはもっともっと前の声を学び始めた10代に覚えた「こんにゃく体操(野口体操)」をやっていたことから得たところの多い感覚です。もちろん同じことを全く別の感覚、例えば「丹田で動作する」とか「神様にお任せする」というような全く別の感覚を得ることで実現している方もあるでしょうが、私にとってはこの「体感空間」という言葉の果たす役割が大きいのです。
声と呼吸との深い関連は分らないなりにも歌を始めたときから教えられ、また、さもありなんと当然のこととして受け入れ、声を出すときには常に教えられた呼吸の感覚を意識してきました。
あるとき、出ている声の方向性や広がりと息の入り方とに関係があることに気づきました。時間をかけてそれを観察すると、呼吸は自身の身体の中に空間を生み出しており、そこで生まれた広がり(空間)と外に感じている声の占める広がり方とが相似形のように感じられることに気づきました。また、声を出すときに開ける口の形、それと共に口の奥や咽頭部、喉頭部あたりの広げ方、これらも声の広がる空間と相似形に感じられる。この相似形と感じられる三つの状態、喉周り、体内の呼吸の形、そして外に感じられる空間、それらは幾何で描く図形のように明確な形ではないけれど、縦や横に広がる、後ろや前が伸びる、上が大きな風船、下膨れな空間、頭の上で広がる空間、というように感じられるのです。
歌うとき外に感じている空間は、中で行われている呼吸から生じているということ。
この観察を深めると、心の広がりも呼吸の広がりが生み出していることがわかります。心が広いという言葉なら誰でもその意味が分かるでしょう。
なんということだろう、自分の多くの面が幾重にも呼吸と直結している。自分に生じる意識や感覚の多くが呼吸から生まれ、また呼吸そのものでもある。
心の広がりも気分の豊かさも、みな呼吸の形が生み出している。この「体感空間」を拡げれば意識が広がり、声の広がりもうみだせるのだと、驚いたことです。
この感覚の意味するところ、それは、『体感空間が示唆するところはヨガの三密(心身息)の意味するところと同じである』ということです。この気づきを得てからというもの、いつも空間を意識しながら声を出したりポーズをしたりしていましたが、「体感空間」の感覚に慣れるにしたがって、呼吸のコントロールの仕方が分かり、そこで生まれたのが母音メソッドでした。
ですから、身体・心・呼吸・声を意図する方向に変えていくという、私のヨガの実践法の根幹に「体感空間」という感覚や概念があり、母音メソッドもその上に成り立っているということです。
体感空間の論理的な説明
体感空間も母音メソッドも大きな気づきでしたが、これらは私の体感や直感から生まれており、その状態を論理的に説明することはできません。ですから、母音メソッドを文章で表現すると、「これをやれば呼吸が変わって心の状態まで変わりますよ、声が良くなりますよ」という表現しかできません。もちろん、実際に顔を合わせ呼吸を共にする相手なら以心伝心、呼吸そのものが伝わるのですが、本や会報の記事に書くと、それはいわゆるノウハウになり、やればそれなりの効果や声が少し変わって楽になる、という表面的なとらえ方でしか受け取ってもらえない可能性が高くなります。しかし毎月ここで表現しようとしていることはヨガの説くところであり、体操であれ発声であれ、ただ生きるのではなく生ききるため、生きて何を得るかではなく、いかに生きる質を高めるか、というところですから、ヨガとしてやるなら、私がやるなら、声もポーズも呼吸もせっかく手に入れた体感空間ツールを使わない手はないし、この根幹を体得することを抜きにしては意味がなくなるのです。でもそれを直接体験できない場では、論理的に書き表す以外には、宗教のようにただ信じてください、信じてやって同じ体験をしてくださいというしかありません。論理的な説明があるなら、理解して取り組むことのできるテーマになるのに…、とずっとそう思いながら、何十年も体感空間というものを観察し続けてきました。そして最近、数年前に天の助けが突然現れ、私にとっては初めての、呼吸の一側面の論理的な表現ができるようになりました。
呼吸の拮抗
それは「呼吸の拮抗」という考えで、2018年12月号から「呼吸コントロールのメカニズム」というサブタイトルで書き始めました。まずは「二つの拮抗」、その後、「三つの拮抗」とした方が説明しやすいと、2019年10月号に掲載し、それから1年が経ちました。
そしてこの数年で、この観点で組み立てた呼吸法を多くの方にしていただき、繰り返すことでその感覚に慣れ、体感空間、肚への意識、吐く息に力がこもる、などという新しい意識を育て自分のものにする方が増えてきました。
呼吸には姿勢や動作によって必要な型があり、それは心の使い方によっても変化はしますが、外せない鉄則があります。それは、活動状態にあるときには、放っておけば息が入ってこようとするような体の使い方(姿勢)をしているのが正常な状態であるということです。そこから吐くので、力をこめないと吐けないのです。「吐く息に力をこめよ」という沖ヨガの教えは、その前に息が勝手に入って来るような身体の使い方をしているという大前提があるのです。これが「第3の拮抗」、吸う息と吐く息の拮抗です。
呼吸の拮抗はこれだけではありません。息が入ってこようとする働きは、方向性の違う2つの吸う働きが拮抗(第1の拮抗)することで胸郭がいつも広がろうとしている。そしてその拮抗のあるまま吐くには、横隔膜の下がる働きに対して骨盤底筋や肛門、その他の体幹の筋肉が、下がる横隔膜を押し上げるように拮抗(第2の拮抗)する。このためその間にある腹腔内の圧力が高くなる。
それらは背スジの伸ばし方であり、背骨の力のこもり方であり、お腹の締め方であり、横隔膜や肛門の使い方であり、それらの総合でもある。しかしそれらの拮抗が十分には働かなくても、いや全く働かないでも一応呼吸はできる。でも、より良い心の状態や身体の状態、そしてより良い声の出方を求めていくと、三つの拮抗がバランスよく体の中を開き、ゆったりと呼吸ができるような呼吸の型になるしかのです。その呼吸の型を生むコツが「拮抗」にあるのです。
もちろんこの呼吸の拮抗だけで身体や呼吸の使い方を体得できるわけではありません。でもこの呼吸の根本の方向性が間違っていればいくら努力をしても本来の良い呼吸や正しい身体の使い方に到達することはできません。もちろん良い呼吸は本来生命に付与されている当たり前の働きですから、全く別なアプローチが数多くあることでしょう。私がここに書いていることは、「良い呼吸をしているときにはこんなことが起こっています」ということで、それはこの拮抗の話から始めるしか説明することができません。この拮抗があるからこそ、多くの人が求めているコツすなわち「肚や体感空間の自覚」という感覚がフィードバックとして生じるのです。
肚に意識を置け、統一体だ、というような「体得」を得るにはそれなりの手順があります。もちろん呼吸の拮抗というとらえ方も簡単ではないかもしれません。それは「○〇のポーズをしたら痩せます」というような安易なノウハウではないということですが、ただ目に見えないところをやみくもに進むのではなく、体の使い方を分析しながら自分で変えていくための明確な手掛かりがあるということです。
今回の話の結論です。母音メソッドを本に書いてあるまま形をとり声を出すことは誰にとってもそう難しくなくできることでしょう、しかし、この拮抗の働きを意識化してその働きを高めないと母音メソッドの本当の価値は分かりません。
母音メソッドをより深く理解するためには、本来のヨガが必要になり、体の使い方や心の在り方、そして呼吸の在り方についても言及しないわけにはいかず、いつも話がそれてしまいますが、根本としては、ヨガの説くところを私も実現したいし、ご縁のある方にもそれを実現してほしいと願っています。
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