今では道場での生活はなつかしくまた有意義なものであったととても強く思いますが、初めて道場に行った昭和45年(1970年)6月、その時の初印象は決してよいものではありませんでした。
沖先生の本を読んで、道場に行く前に勝手に想像していたことですが、「白亜の殿堂」とでも言えるイメージの建物と、その中の静かで澄んだ空気のなか、皆が静かにヨガを行じている・・・そんな情景を想像していました。しかし行ってみてびっくり。建物も人も雰囲気も全く想像外。
道場の本拠地は三島の沢地にありましたが、最初に入門したときには丁度全員が下田にあった別な建物に行っていたのでそこにポンと放り込まれました。そこは奥様の愛子先生の実家の関係の建物でしたが、母屋から離れたところにある“板を渡したボットン便所”に大量の金蠅がブンブンと飛び回っているような結構古い建物でした。行法会場にも使っている大部屋には、垢でテカテカに光っているセンベイ布団が山にして積んである。そのそばには元気な人もいるけれど、多くが髭も髪もぼうぼうで、病人のような悪い顔色で背中を丸めて座っている。ボソボソと超能力やUFOの話をしている一団もいる。(当時は超能力やUFOの話もヨガという言葉も、一般的ではない訳のわからない、特殊なものでした。)
これは本で読んだヨガとは全く違うではないか、なんて不潔で気持ち悪い奴の集まっているところなんだ、と、まずは幻滅してしまいました。後年インドや東南アジアに何度も行きましたが、そこで見たり体験した不潔感に比べればずいぶんきれいなところであったと思いますが、当時の私から見ればとんでもないところでした。潔癖な私にとっては大便も止まってしまうつらい体験でしたが、調えるべきは環境よりもまず自分ですよと言うことだったのでしょう。おかげで適応力の大切さがわかり、積極的にどんなところにも飛び込めるようになった良い体験でした。
すぐに沢地の道場に戻りハードな道場生活が始まりましたが、この最初の3日間はつらいだけでした。しかし、その1週間後の10日目くらいに、私の物事の捉え方が変わってしまうという大変革が起こりました。多分その時のエネルギーが今も私を推し進めるエネルギーになっているのだと思いますが、このことについてはまた別にお話します。
あと、沖先生のお話でよく覚えていることの一つは、「この道場(沖ヨガ修道場)はガンジーの農場をまねしたんだ。同じようにやっているんだ。」とよく言われたことです。ガンディーの共同農場(“共同農場”と言う表現だったかどうかは覚えていません)の話を聞いて、私もそんな修行ができる、生活ヨガを実践できる、共同生活をする農場をやりたいと思ったものでした。でも残念なことに畑に関しては、道場にあったのは小さなものでした。
その後、学生時代(26歳まで)は休みの度に道場に通いましたが、道場に入った日はいつも、まず自己反省文を書くように言われ、それを空き時間や夜中の時間を使って何日もかけ、自分の生い立ちから書いたものでした。そして体調日誌(便の回数や変調など)を書き、毎日の各行法の感想文を書き、最後に道場を出るときには、総合感想文を書きと、自分の中にあるものを出す訓練の一つとして、滞在中はずっと書き続けていなければならないようになっていました。このおかげで、書くことへの抵抗がとても減りました。今もこのサイトに色々書いたり、トータル ライフ デザインという会の機関紙(和気愛会)を毎月発行し、そこに私の専門とする声や呼吸を通して行うヨガのことを書き、また生徒さんたちの投稿を載せたりということをしています。
このように、沖ヨガ道場では教室ではできない、生活そのものをヨガにするということを少ない睡眠時間で休日なしが当たり前で行じ、学びました。ヨガ道場で学んだこと実践したこと、沖先生の話などをすればきりがありませんが、折に触れ紹介していきます。
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