呼吸コントロール力2

14.二足歩行の呼吸 ー 四足の呼吸システム

 母音は「心や呼吸の膨らみ方」の違いが声に表れたものです。そして、本来円満に広がるべき心と一体の呼吸を、一時的に偏らせる力を加えることで母音の変化が生じているというお話もしました。人類の文化が発達する以前から今に近い時代まで生きていた原始生活者たちは、このような声の働きをそのまま言葉にも生かして心の表現に使っていたことでしょう。しかし、現代の言葉では、よほど強く感情を表現するとき以外にはそのような働きが使われることは少なくなっています。それでも、伝統的な歌声や演劇の中ではこの働きが生きており、そこでは、方法は様々ですが多くの方が声の本来の働きを発揮できるように取り組んでおられます。

本来の呼吸と声

 文明社会に属さない人達の声を聴くことができるなら、有史以前からの本来の声の出方や心の表現の在り方がある程度わかるかもしれませんが、そのような人たちはほとんど地球上から姿を消したのではないでしょうか。でも多くの芸術家たちが、生まれながらに持つ本来的な感性を頼りにそのような声を実現しようとしていると思われます。声を出すことが人間の本来に根差していることであるのに、誰にでも関係の深いことであるはずなのに、なぜ特別な人達しかそのような声を育てようとしないのでしょうか。その原因は、きっと私たちの文化と共に生じている価値観から生まれる複雑な心の状態にあるのでしょう。常に生きがいや悦びを感じて生きているべき生命の本来の姿を見失っていることが、生命の素直な表現としての声を阻害しているように思います。

 生命に根差さない価値観の中で育ち、骨の髄までその価値観を身にしみこませた私たちの行動や表現のパターン、他と共有せざるを得ない言葉や会話の方法などそれらの全てが私たちが持っていたはずの声の出方を奪っています。このことに気づけば、私たちの言葉がいかに抑圧されたものか、生命の本来の姿を反映していないかがわかります。芸術家と呼ばれる人たちも、その文化的しがらみから解かれることではじめて、既存の芸術のパターンの中にはない本来の芸術に触れることが出来、味わうことが出来ることでしょう。

 また脱線しましたが、私にとってこのことを避けてはヨガをすることも語ることも出来ません。本来の私は? 本来の幸せは? 本来の人間は? 本来の社会は? と、他人の頭を借りることなく自分の感性と頭脳だけを頼りにして初めて私のヨガが出来ることでしょう。そして次に、本来の声は? その声を生み出す本来の呼吸は? その基になる本来の身体は? そして本来の心は? と切りがありませんが、私にとっては切実な問題であると共に、これほど面白い題材はありません。

 「呼吸コントロールのメカニズム」と題して一年かけて会報に書いてきたことは、自分の心身を見つめることで少しずつ解いてきたことですが、少しわかったと思ったらまたすぐに次の課題が生まれます。それは、私たちに起こっている様々な働きがなぜ生じているのか、どうしてそのような拮抗などの面倒くさい手順を踏まないと正しい呼吸ができないのだろうか、というようなことです。そして、いつもそこに思いを廻らせていたところ、ひとつ大きな気づきがありました。

 それは私たち人間が四足から二足で立つという大きな姿勢の変化があったにもかかわらず、四足の動物たちと呼吸のシステムがほとんど変わっていないということです。

 深く動物を研究したわけではありませんが、テレビで放映される野生動物の番組を毎日のように観ていていると、色々な角度で撮影されたり編集されている多くの映像はとても興味深く、本来の動物の在り方、そして人間のあるべき姿を教えてくれます。その彼らの姿勢と呼吸から、自分の呼吸との違いについての気づきがありました。それは私たちの御先祖が2足歩行をする以前、現在の他の哺乳類と同じような呼吸をしていたはずですが、肋骨や横隔膜を使ったその呼吸形態の基本を変えずそのまま、上体を90度起こして2足歩行の生活をするようになったということです。

四つ足の呼吸

 四足時代は背骨が梁として働き、肋骨が背骨からぶら下がるようについているために肋骨が萎みにくい構造になっています。ところが立っている人間では、肋骨が下がって胸腔が萎んで狭くなっている人がとても多いのです。それは、起き上がった時に肋骨を上げておくための背骨(背スジ)を伸ばす働きが緩むことで肋骨がお腹の側へ下がってくるからです。ネコやライオンのような四つ這い姿勢であれば、肋骨がお腹の側に萎んで呼吸の入るスペースが小さくなるようなことは考えられません。

 野生の猿、とくにゴリラ(※註)を見ていると、四足の呼吸の状態を維持したまま身体を起こし、呼吸の拮抗などは当たり前に働いているように見えます。特にシルバーバックはその働きが強そうです。彼らにあっては、胸を叩くドラミングはその音が肋骨の広がり方すなわち呼吸力や体力、そして強さを表す指標になるのでしょう。

 人間も四足から猿のように二足歩行が可能になり、次に完全に立ち上がる姿勢になったのでしょうが、自然な原始生活時代は誰もがシルバーバックのような強く深い呼吸をし、立っても四足時の深い呼吸を維持していたに違いありません。当然、直立しても肋骨を下げないような背骨の力を維持してきたはずです。人間は、四足の状態から見れば腹部の側を引き上げて背中側を下に引き下げて背骨を起こしていますが、立てば内臓が下がるので、肋骨を引き上げ、お腹が締まって内臓を押し上げ、また骨盤底筋群をより発達させる、というような胸郭を萎めないための余分な作業をして初めて多くの動物たちと同じような呼吸ができるようになっていると考えられます。

 でも呼吸のための多くの機能は、足や腕を使って移動したり姿勢を変えたりする機能、すなわち摂食や移動のための運動用の筋肉と共用しながら発達させたものであり、呼吸器だけで発達してきたわけではないため、四肢を充分に発達させないでいる現代人たちは呼吸の働きが低下しやすくなっていると考えられます。

 このように呼吸のことを観ていくと、相撲の四股や立ち合いの仕切の姿勢は、動物時代から持っている深く強い呼吸の働きを呼び起こすための姿勢であるということがよくわかります。これらの能力低下のもとにあるのが怠け心であれ文化であれ、人間には正しい姿勢と正しい呼吸を維持できるような身体作りが必要ということです。

 このことを生徒さんに話していたところ、飼っていたワンちゃんが後ろ足だけで立つ姿勢のことを思い出し、ネットで検索して、お腹を強く引き肋骨を高く引き上げて立ったワンちゃんの写真を見せてくれました。

 胸骨の先端の引き上げ方、お腹を締めて引き上げる使い方は、私たちが深い呼吸をするために求められている姿勢そのものです。

 さて、私たちが良い声と感じる声は快い響きを伴った声です。また観点を変えれば、深く快い呼吸が伝わり、聞く人をそのような呼吸に引き込むことで快さを伝える声です。

 そのような声が生まれるには、喉周りすなわち声の出る音源のところでの作業が必要ですが、その喉部(喉頭部)は呼吸器の一部であり、呼吸全体の働きの一部として働いています。ですから全身が協力しなければ喉だけで正しく働いて良い声がでることはありません。強い声でも優しい声でも全身を使った呼吸でなければよい声にはなりません。全身を使って身体の中の空間が広がるように呼吸をしている人の声には広がりがあり、快さを感じるということです。そして、その広がる方向性が音色を決めています。

 この音色の変化は母音の働きと呼んでいる広がりの方向性によって生まれます。この母音の働きは、本来母音だけの問題ではありません。呼吸から生まれる上下前後左右への広がりは声の広がりにも、意識の広がりにもなります。ヨガの聖音と言われる「オーム」は全ての方向に無限に広がる音をあらわしていることでしょう。聖音を唱えるには、どこにも「こだわらず」「引っかからず」「とらわれない」身体と呼吸の状態が求められます。そしてもしそれが出せるとしたら、この声こそが完全な理想的な広がりを持った声であり理想的な曖昧な母音の声であることでしょう。

 完全な広がりというものを私たちの意識や声で実現できるのかどうかはわかりませんが、いつも意識を広く保とうとすることが肋骨を高くし横隔膜や骨盤底筋を働かせることになります。要は「あいまいな母音」の声というのは心のこだわりが少なく、心を広くすることのできる状態の声だということです。まずどのような方向にも広がることのできる呼吸と声の働きを持ったうえで、その上に「あ」なら「アの母音」、「お」なら「オの母音」のそれぞれの傾向の広がりを持つ声が伸びやかないい声だということです。そのような声で言葉を語り歌を歌うということは、人間として生まれて味わえる醍醐味の一つであろうと思います。

 あいまいな母音については別の機会に詳しくお話します。

(※註)ゴリラ:

ゴリラは霊長目ヒト科ゴリラ属に分類される大型の類人猿。

他の類人猿と同様、地面を移動するときは両手を握って拳にして4足歩行のナックルウォーキングをする。

オスは生後13年くらいから背中の体毛が白くなり、いわゆるシルバーバックになる。オスのリーダーであるシルバーバックを中心として、複数のメスとその子供たちからなる群れを作って暮らす。

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