2018.01.06
2018年お正月です。
きな臭いニュースが満載だった2017年の暮れ。
何とか無事に年が明けましたが、水面下では何が動いているのか不気味に感じているのは私だけではないと思います。
今回は長い休みでしたが、何か出来たわけでもなく、何となく毎日雑用に追われテレビの映画を見、気分は普段よりのんびりしていたのかなという感じです。
今日観た映画は「国際市場であいましょう」という韓国映画です。1950年(私が生まれた年です。)その当時7,8歳の少年が朝鮮動乱で父親、妹と生き別れになり、父の代わりに長男である自分が家長として家族を守るという使命を全うするための壮絶な生き方を現代からの回想という形で描かれた作品です。
日本人にとって戦争の悲惨な時代を生きてきた方々は我々の親世代です。今はもう何も言わず、言っても仕方がないという感じで思い出さないようにさえしているように見える年代です。
われわれ世代は子供のころ親に戦争の話を聞いて育ってきて戦争の悲惨さを知っているつもりではあります。
現役世代の人たちにとっての戦争は「アニメの中で描かれる戦争」や「過去の話」の中の事でしかないのかもしれません。
実際私も広島の原爆館では吐き気を催し直視できない現実でした。
確かにわざわざ悲惨な状態を見る必要はないのかもしれないと思う事もありますが、実際にはもっと惨たらしく、虚しく命が壊されていく様を一人一人の中でしっかり受け止めなければ、同じ間違いを犯すことになりかねないのではないかと危惧されます。
我々と同年代のこの主人公にとっては今まで生きてきた人生そのものが戦争に翻弄されたものであり、未だ戦争から解放され切らない状況下で暮らしているという事がリアルで胸を打ちました。
韓国ドラマにはまってしまった私ですが、日本のものと何が違うのだろうといつも感じていましたが、韓ドラの中では、生身の人間そのものが描かれているという事がはっきり分かりました。人間の欲、身勝手さ、血縁、愛、恨み妬み嫉妬、そして許し。それらのことがテーマになっているドラマが多いのですが、日本のドラマはきれいごとで人が描かれていて、たてまえ論を聞いているようでドラマで説教するな、的に感じます。洋画なら殺すことで終わりにしてしまう復讐劇の結末が、韓ドラでは恨み、悩み苦しみ人の本性が描かれ、最後には「許す」という選択が多いように思います。
許しあわなければ生きていけない環境下だという事でしょう。南、北に切り離されていても肉親や愛する人が両方に生存し、認め合い許しあわなければならない現状が日々の生活の中に存在するそんなお国事情が影響している国民性なのだと思います。
映画に話を戻すと、主人公がドイツの鉱山に出稼ぎに行き、国にいる家族の生活を支える。又はぐれた父親が訪ねてくる可能性のある店を守るためにベトナム戦争の最中のベトナムへ仕事に行く。過酷な労働や危険な仕事をしながら「こんなことをするのが自分でよかった、子供や孫にこんなことをさせなくてよい事が幸せだ」というシーンでは本当につらくなりました。
今この時代を生きる我々は、これからの人たちにつけを残してはいけない、平和が少しでも損なわれる状況を作ってはいけないとつくづく思いました。
「平和ボケ」している日本人とよく言われますが、戦争ができるように憲法を変えられても、国から「家族のあり方」を押し付けられても、教育現場に「銃剣」が取り入れられても、スマートメーターなるもので生活をコントロールされる可能性があっても、危機感を感じないほど本当に洗脳されてしまっているのか、ボケているのか改めて平和を切に願う年の始めです。
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