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周平の沖ヨガ読本(13)

周平の沖ヨガ読本(13)



 - 沖ヨガとは-7 -   2013年10月号(No.169)

沖ヨガ考、沖ヨガ読本と思いつくままに書き、毎回コロコロと焦点が変わります。

お付き合いいただく皆様には、こいつは何が言いたいのだろうとお思いでしょう。でもご容赦ください、それだけ私の心もコロコロと動いて定まらないのです。

とはいうものの、これを書き始めてから、沖ヨガとは何か、どのように修すればよいのか、という40年以上の問題の解決に向けて、どことなく頭の整理がついてきているように思えます。

沖先生の亡くなった翌年、現沖ヨガ協会の関西連合会の母体を作った時、また、沖ヨガ道場で責任役員をしていた時、問題のある時には必ず「いかに沖ヨガを残すのか」という課題の中で、必ず誰かの口から語られる言葉がありました。

「沖先生には及ぶべくもないが…」という表現です。確かにその通り。多くの体験をし、多くを学び、多くを把握し、多数を指導し、多くの功績を残された沖先生の能力はとんでもなく高く、沖先生らしいところは、どこをとっても及ぶべくもない、とその場の誰もが思ったことです。後をついていく人間にとって大き過ぎる存在なのです。しかし別な見方もできる、と今は思います。

狭い途にあって、人の後ろをついて歩けば、決してその人の前に出ることはできないのが道理です。

いつも後ろを歩くだけ。私たちが敬服し、尊敬するからこそついていく。なにくそ、お前に負けるものか、とも思いながらあとを追ってきたわけです。

しかし、その立場に自分を置く限り、ヨガを理解するのではなく、沖先生を理解しなければならないことでしょう。そしてそれは迷路に入っていくような大変な途に違いありません。

沖先生と接してきた人間にとっては、沖先生を通してヨガを見るということが当たり前になっているのかもしれませんが、その見方はどこかで変わらなければならないでしょう。

ひょとしたら、本当は初めから同じ途を歩んでいるわけではなかった。ということに気づかねばならないのかもしれません。

及ぶ及ばないではなく、沖先生やその他の多くの諸賢諸聖と同じところを目指して生きるというところが大切なのだ。

人が変わり、時代が変わり、世の中が変わる。生き方や価値観が変わる。しかし、ヨガが掲げる人間の持つ本来の生きる目的が変わるわけではない。

その高い目標は厳然として前にそびえている。でもそれにしり込みをせず、途中ですごすごとあきらめて引き返すのでもない。

ただそこに山があるから、と黙々と歩き続ける。誰が何と言おうと、誰が何をしようと、自分の本来生きるべきあり方が変わるわけではない。

誰に教えられなくとも自分の姿があり、自分の求める姿がある。自分の欲しいものを見据えるが、得られなければどうだというのだ。

そこに到達できなければ何も得られないのではない。ただそこに惹かれ求め、歩んでいるに過ぎない。

そこで目の前が開けた人もいれば暗中模索で必死な人もいる。そこで自分の観たもの得たものを認められる人もいれば認められない人もいる。沖先生を含め、他の誰とも比べることなく自分の途を歩む。これこそがヨガをやるということなのだ。

と、行きつくところが、客観的に観るのではなく、私自身のヨガの取り組み方の問題に帰着します。

沖ヨガをテーマに書くことは私にとって段々難しくなってきて、これでこの連載もおしまいにさせていただきます。

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