2014.05.17
88才の父が天寿を全うしました。
天寿って?死って?生きるって?
いろいろ考えさせられました。
生まれた以上いつかは死ぬ。
当然知っているけれど、解っているかどうかは疑問。
まだ、寂しさとか、悔しさ、悲しさは感じる事が出来ない。
感情がストップしている。
もう年だったし、身体も色々ガタがきていたので、この日に後悔しないようにと毎年、様子を見に帰郷していた。
いつまでも親は居ないのだと思いつつ、居てくれている事がアタリマエと思っていたようだ。
葬式やその後の色々の手続きに追われて悲しんでいる暇が無かった。
その為の儀式なのかもしれないと思う。
儀式をこなしているうちに段々と認識度が深まり身体で事実を認めて行くようになるのだろうと思う。
無意味なようにも感じる葬式のしきたり、無意味に思わせるのはそこに乗っかって金儲けをする人間が仕組んだ諸々のせいだとはっきり認識した。
シンプルに、逝った人の霊を弔う事は必要なことだと思う。
その弔い方に値段をつけて死んでからまで挌づけされることに何の意味もない。
公務員だった父はその昔叙勲している。
亡くなってからまた何か勲章をくれると役所から連絡が入り、そこに何の意味も見いだせないので断った。
みな迎える死の瞬間、その時に精一杯生き切ったと思える為に生を素晴らしいものにしなければならない。
その生き方そのものがヨガだと思う。
そして、死は全ての終わりではなく新たな始まり、
そこからそれぞれとの関わり方で其々の中で生きだす。
遺影に使った写真はとてもおどけた顔だった。
孫が「おじいちゃんのこんな顔は見たことがないから、この写真」と選んだものだった。
別の孫である私の子供達は「あれはおじいちゃんらしい顔だから良いよ」という。
その写真はわが家に遊びに来ていた時に撮った写真。
我が家に来ている時は旅行気分で、いつも上機嫌だった。
やはり其々との関わり方で記憶に残る顔も違ってくるのだと思う。
最後の頃は心臓や腎臓の弱りで浮腫んで、頻繁に心臓発作を起こしていたようだ。
さぞかし、苦しい思いをしていただろう。
昔から、辛い、苦しいを決して口に出さなかった父だった。
肉体から離れてどんなにか安らかになった事かと。
肉体を抱えているためにどれ程プライドが傷つけられていたのかを思う時
肉体から解放され自由になった父の魂の存在を喜んであげられる気がする。
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