2013.04.16
4/9の続きです。
灘高校のグリークラブで歌ったり指揮棒を振ったり、その後灘をやめて転校した先の雲雀丘学園高校でも合唱部で歌ったり指揮をしたり、またその頃は不良の音楽といわれながら一世を風靡したビートルズ、そしてボブ・ディラン、ブラフォー、PPMらのフォークソング、いろんなジャンルの歌をギターを伴奏に弾き語りをしたり、グループを組んで歌ったりしていましたが、ドイツリートは全く別の世界の音楽でした。
前回のブログに出てきた畑中良輔さんの書いたものにこんな文章がありました。「ドイツリート愛好家は、リードの歌う《憧れ》sehnsuchtの何たるやをよく知り、感じているはずだ。…」
たしかに、ポピュラーソングやクラシックの他の多くの声楽曲ともちがう何かが、ある時は美しくある時は悲しく、ある時は切ない恋心が、その《憧れ》が、胸を張り裂くように膨らませるのです。
バリトン歌手では、SPレコード時代のシュルスヌス、当時最盛期に入っていたヘルマン・プライ、フィッシャー・ディースカウ、その一世代前のハンスホッター、などの素晴らしい声楽家のレコードを手に入れて聞いていましたが、その声と歌は自分の歌とはかけ離れていて、「こんな声で歌えたらもう死んでもいいな」、などとドイツリートを最初に教えてくれた親友と話していました。
当時は阪神間の西宮市に暮らしていましたが、自宅の向かいに住んでいた6歳年上のO氏に連れられて、隣の市の尼崎市にある小さな教会の日曜日の朝の礼拝に通うようになりました。
バプテスト派というプロテスタントの教会でしたが、その教会でバプテスマ(洗礼)を受けることになるのですが、そうなる前、まだ行きはじめのころのことです。
礼拝では、祈祷や説教、その他セレモニーの各所でオルガンを使って荘厳な感じの奏楽を演奏したり、また皆で讃美歌を歌ったりします。そして奏楽士と呼ばれる人がこの演奏と伴奏をするのです。
小さな教会でしたから、皆の集まれる部屋は一つしかなく、オルガンといってもエレクトーンでしたが、ネクタイを締めた奏楽士の姿も音楽も、それらしい雰囲気に形が決まっていました。
ところがです、その教会に行き始めて何回目かの日曜日、礼拝がすんで、参加者がざわざわと部屋の中を行き交い雑談を始めたとき、その奏楽士が、突然軽快なラテンのリズムを弾きはじめ、なんとそこに歌も歌いだしたのです。ベサメムーチョ(Besame mucho=Kiss me much)という題名のラテンソングでしたが、素晴らしい声の弾き語りでした。
かっこい~い。これにはびっくり仰天。
荘厳さは吹っ飛んで楽しく明るい雰囲気を皆が楽しんでいましたが、その奏楽士は、東京芸大を出た声楽家で、学生時代はこの弾き語りで生活費や学費を稼いでいた苦学生だったとのことでした。
自分もこんな風に歌いたいと、しばらくは取り巻きをしていましたが、気持ちが昂じて自宅にラテンを習いに行くことになりました。
何度かそこに通って「ベサメムーチョ」や「ある恋の物語」などを習い歌っていたのですが、待ち時間に全く違うタイプのレッスンを受けている人がいることがありました。
その人たちは音楽大学の声楽科を受験するために、発声法、コールユーブンゲンやコンコーネなどというクラシックの声楽の基礎を習っていたのです。
そうか、ここで彼らが習っている発声法を身につければ「冬の旅」や「白鳥の歌」が歌えるようになるはずだと、ラテンはさておき、クラシックの声楽を習うことになり、素晴らしいドイツリートを自分が歌うという理想が現実味を帯びてきたのです。
話は戻って、その教会には好きになった女の子が熱心に来ていましたが、彼女はバイオリンを勉強していて、どこか音楽学校に行こうとしていたのです。それなら自分も音楽を専門にしたらもっと彼女と親しくなれる… というような単純な動機も手伝い、それまで工学科志望であったのを転向し、音楽大学に行くべく、受験に必要なピアノの勉強を20歳にして始めることになったのです。
詳しく書いていたらちょっと疲れた…続きはまた今度
註
ブラフォー:ブラザ-ズ・フォー
PPM :ピーター・ポール&マリー
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