2019年 12月号
今年も最終月を迎えます。
今年のヨガしましょうを読み返してみると如何に、政治に対する理不尽さに怒って一年を過ごしたのかが伝わってきました。
環境問題、気候変動や、格差社会に対する怒りも元を正せば、人道主義につながります。
人が人として幸せに生きるためには、全ての生きとし生けるモノの命を守り、森羅万象全てがより良い状態の中で生かされるべきだという思いの現れです。
「問題になっていることに沈黙するようになったとき、我々の命は終わりに向かい始める。」キング牧師の言葉を何年か前に書いた事が有ります。今年は事が起こる度に、「茶色の朝」やレイチェルカーソンの「沈黙の春」を思いました。
そして、今回来日された教皇フランシスコ氏は「この経済は人を殺します」と明言し巨大な多国籍企業による搾取は弱い者への暴力であると訴えています。東京ドームに集まった5万人の人々の意識変化がもたらされることを願います。
アルゼンチン出身の教皇の両親はイタリアからの移民だったそうで、非ヨーロッパ出身者が教皇となるのは1272年ぶりとされる。そんな教皇はどんな理念の持ち主かと云えば、死刑廃止論者、貧困問題の解消、水道民営化反対、環境問題への憂慮などを唱えている方だそうで、「全教区で1難民家族受け入れ」運動を展開し、宗教、コミュニティを超えた連帯を模索する。
宗教者は教会の建物に閉じこもっていてはならず、命の危機にさらされ、苦しみの中にある人があれば、すぐに駆け付けなければならないと主張している方だそうです。
どの宗教でも同じことを教えています。「祈る唇よりも差し伸べる手が必要」というのは阪神大震災のボランティア活動をした時の私の行動力の原点でした。ヨガで言う宗教とは自分自身の中にある神の存在に気づくことだと教えています。自分自身の中に神があるのならば、全ての存在の中にある神を知るべきであり、科学や哲学を駆使しても、解り得ない世界の存在を認め、畏敬の念を持つ心の状態を宗教というのだと思います。
人の持つ、良い思いの連鎖が、教皇のオーラや大きな愛に触れ、今の日本の状態にアンチテーゼを突き付けられる大きな渦を作っていける事を心から願います。今回の来日が、ただのお祭りに終わらない様、しっかり皆で受け止めたいと思います。
冬の身体は、冷えによる乾きが原因の不調が表面化します。水分不足は、特に粘膜系に影響します。目や喉、呼吸器、鼻、泌尿器、生殖器系に影響が出ますので、水分補給をまめにし、体調管理しましょう。この時期、心臓発作や、脳溢血などをおこしやすいのも、冷えと水分不足が原因です。電気こたつ等で身体の一部分だけを温めると、血液が鬱血します。冬の風邪は、眼と上頸部を温め水分の循環を整えることで、経過させます。頭蓋骨が閉まる時期でもありますから、上頸部を緩め、頭の緊張を取っておきましょう。イライラや不安は、頭の緊張が原因します。心身を平穏に整え、くる年の準備に向かいましょう。
2019年 11月号
オリンピックを前に、スポーツとヨガの違いを再認識してほしいと、考えてみました。
ヨガは、自分の心身を自分で支配し、管理し、自己解放するために、ヨガの哲学性や、科学性、それに則った色々な可能性としてのアサナがあり、決して競争がないのです。
ヨガでは、アサナが出来る出来ない、ということに重きを置かないので、あくまでも、本人の中での、可能性や達成感、心身の喜びを重視します。ですから、ヨガを終えた皆さんが、「心身が喜んでいるのが分かります。」と言って帰っていくとき、私自身本当に幸福感に満たされます。
ここにもし、競争意識を入れてしまえば、今日は誰それより出来た、今日は出来なくてダメだったなどと、要らぬ思いが入り込み本来の喜びを遠ざけてしまいます。
フィギアスケートなどもバレーと同じ芸術としての種目だったと思いますが、競い合うために、どのような技を入れなければ点数にならないというように、芸術としての自由を失ってしまったように見え、とても残念です。
技術は向上するかもしれませんが、芸術として楽しむという事から離れていくようで選手の頑張りが痛々しくさえ見えてしまいます。
元々スポーツも、自分自身の、可能性を求めて行く中での「喜び」、「楽しさ」を膨らませるための「競争」だったのだと思うのですが、スポーツの祭典と称するオリンピックになれば、スポーツの意義がなくなってしまいます。
オリンピックとスポーツは別物かという気がするので分けて別記します。
ヨガしましょうとしては、秋の身体は、肺が更新する時期です。空気が乾燥し、冷たさも相まって、呼吸器負担が増えます。乾燥が苦手なのは粘膜系です。粘膜を潤す食べ物、 大根や白菜、レンコン、蕪など白い野菜が身体を整えます。温かい汁物、果物なども体を潤します。
気温差は身体の捻じれを生じさせます。ねじれが原因の腰痛なども出る時期ですので、朝の足湯がお薦めです。
オリンピックと右傾化政府
オリンピックはもはやスポーツの観点からみると弊害に見えてきてしまいます。その弊害は「競争」のことに留まらず、実にいろいろな問題を含んでいるように感じます。
オリンピックでは「勝つことがすべて」。そこに「国家のため、国の代表」などというおかしな目的を掲げてしまった結果、自分の身体を「国民の期待」なるものに隷従化させていくことが、当たり前になってしまっているようで、テレビで若い選手達が、「オリンピックで金メダルを取る為に頑張ります」などというのを聞くと、可哀相にさえ感じます。
目標が自分自身から離れ、「国の為」になっていたら、もうスポーツでは無くなってしまっているようです。ましてや利害損得、政治利用等色々な問題が噴出しているオリンピックとは何ぞやと思います。
先日テレビで、「東洋の魔女」と言われたバレーボールの大松監督のしごきの練習風景や当時の選手だった人のインタビューを見ていて、見るのも嫌な気分になりました。勝利という結果オーライの為に一人の人間としての、思いも、身体も、全て無にされ、隷従させられた若い選手達が、軍隊でのしごきにあっているように見えました。
オリンピックで金メダルを取るという大義名分の為には、個という存在は無視され、引退したいと思っていた人もオリンピックの為にやめることもできなかったと言っていました。「この身をお国の為に捧げます。」と言って散って行った戦時中の若者達と被ってしまいます。
そこに、来年のオリンピックに旭日旗を揚げるということです。 たしかに今まで日本文化として受け継がれてきたものですし、多くの場所で使われ、外国にもあります。しかし、今これを持ち込もうとする政府の意図はどこにあるのでしょう。ただ美しいからというわけではないでしょう。 国民の思いの向いている先で軍国主義を浸透させる意図があるようにしか見えません。
オリンピックを盛り上げるためなのか? 大義名分の為ならスパルタも許される、という事を浸透させるためなのか? 前オリンピックの映像が何日かに亘り放送されています。
今門題になっている2020年のオリンピックを決まったからやるしかないではなく、本気で問題点に目を向けて、考えるべきかもしれないと思います。
今回の台風被害も痛ましい状態です。毎年日本中で被災しています。日本の台風は7,8,9月がピークですし。年々夏の気温が高くなっています。今年のように熱中症危険日の続く中での競技は、選手の身体的負担が大きすぎます。以前の記事にも書きましたが、放射線量も知らされずに参加する選手は気の毒です。
政府は何をやってもお構いなしという風潮の中、諦めと失望の中で、国民の期待感や喜びを誘い、その中でじわじわと軍国化を進めている社会現象を危惧してしまいます。
2019年 10月号
「天高く……」というのが秋の季節の清々しさを思わせるそんな季節の到来です。
しかし季節がずれているというのか、異常気象というのか、今年も夏の台風が大型で被災された方が多く出ました。
自然災害には勝てないというのが昔から言われてきたことですが、最近の被害はきっかけが自然災害であっても、本当に出ている被害は、インフラの問題が大きいように思います。去年大阪での台風被害は風速57メートル、220万戸が停電、千本以上の電柱が折れたり傾斜したりで、電線の断線や混線し、電柱上の変圧器が使用不能になったそうです。今回の千葉県でも、停電のために断水になったり停電が長引いたことでの被害が広がりました。
最近の電柱は、電力だけでなく、電話、有線放送、光ケーブルが張り巡らされ風の力で折れやすくなっているという指摘があります。電柱の設置基準は「風速40メートルに耐える」という物で、去年の台風も今年の台風も風速57メートルを記録しました。
「それじゃ仕方がないね」と諦めるのか、「なぜ強靭な配電施設にしないのか」との疑問派に分かれますが、関電では2010年決算で1117億円あった配電設備投資。修繕費用が15年決算では878億円に落ち込み(原発再稼働のため)東電も1991年に約9千億円だった配電設備費用が、原発事故後の15年には、2千億円に減りました。
北海道地震の時の停電も、原発が稼働した時のための使用可能領域を制限されていたための停電だったという事ですし、自然エネルギーだ、再生可能エネルギーだと、お金をばらまいて、パネルをつけさせたり、風車を作っても、意味がなかったという事です。
もとを正せば原発優先が招いた停電。 だとしたら、「仕方がない」では済まない問題です。原発再稼働を止め、送電設備を強化することに資金投入すべきだと思います。
先日、大飯原発を止めた裁判官として稀有な存在の樋口裁判官のお話を聞きました。「実際に自分で資料を読み調べたら、誰でもが原発は危ないと解るはずなのですが、不思議な事にどの裁判官もそうは考えないのですね」という話をお聞きし、何故か苦笑いしか出ませんでした。そんな皮肉な三権分立国家です。
しかし、諦めず、どんなに雨雲が覆っている空でもその向こうには太陽があることを忘れずに、声を上げ続けていくしかないと思っています。
秋の爽やかな気を取り入れて、心身健やかに過ごしたい季節です。身体の冷え現象は気温ではなく、温度差に対応できないために起こります。朝夕の冷えが身体に負担をかけます。朝の足湯がそれを解消します。夏に開いていた体が、閉まってくるときに捻じれが生じます。側腹を摘まんで緩めると冷えと捻じりを整えます。側腹は呼吸器、腎臓の急所です。足首、足裏も腎の関連部位です。冷やさないように気を付けて過ごしましょう。
2019年 9月号
毎日、猛暑に見舞われ、8年前の節電呼びかけも忘れ去られたごとく、テレビでは毎日クーラーの使用を呼びかけ、熱中症での死者数や病院への搬送数を放送していました。
何度も耳にすれば、人は錯覚を起こし如何にもその事が大事な事のように思ってしまいます。この夏の重要事項は熱中症にならないように生活する事だと。
その暑さの最中に甲子園の高校野球がありました。一斉に水分を補給する時間を取り入れた開会式、開催側の気づかいと言えばそうですが、何か不自然さを感じてしまいました。
実際にゲームをしている球児たちは全身を使い動いているので、体熱も発散でき、巡りのいい身体の状態であの暑さの中でも元気に好プレーを見せてくれました。それでも、恒例、とか伝統とかというある種の拘りを外せば、もう少し選手の負担軽減できる大会の運び方があるだろうと思いました。
テレビでは、「熱中症」と「いよいよオリンピックまで一年を切りました」という放送が流れ続けていた夏。安倍さんが「福島原発事故の状況はコントロールされている」こんな大ウソをついて始めたオリンピック誘致、先日の参院選公示初日には「世界の真ん中で福島県が輝くんですよ」と述べたそうな。
まだ避難している人達がたくさんいて、汚染水の制御もできておらず、元の生活に戻れず苦しんでいる人達への補償もされていない状況下で、オリンピックに使う金はどうなっているのか? 気になるのは私だけではないでしょう。五輪に反対する国内外の人たちによる視察ツアーが福島で行われたそうですが、国際オリンピック委員会(IOC)委員が到着した時に受け取るバックの中に放射線線量計も入っているべきだという発言をしている人がいます。
非常に高レベルの放射線があるこの区域に来る選手に関して健康侵害という重要な問題がある。と述べています。周りには、フレコンバックの高い山、その黒い袋を突き破って芽を出している植物を逞しい生命力と見るのか、穴の開いた袋から漏れ出す放射能を心配するのか、其々でしょうが、もともと、そんなことで 除染できるなどと考えるところに無理があるのです。
始まるまでは、経済効果がどうとか、海外からのお客様の「おもてなし」とか言いますが日本に住んでいる非正規海外労働者、納税しているのに選挙権もない、外国人の人にはちっとも優しくない国です。うわべだけの「おもてなし」にどれだけの価値があるのでしょう? 終わった後に残される種々の負債、壊された自然、追い出された人々への影響はどの国でもオリンピックの後遺症のようです。オリンピックやめませんか?と呼びかけたい夏の終わりです。もう如何にも成らない事でも悪あがきせずにはいられない気分です。
少し風が変わったかなと感じたら、セミの声が変わったという人がいました。汗の量が減るころになると体が捻じれてきます、特に泌尿器に関係する、側腹、内股、股関節、胸鎖乳突筋等に影響が出てきます。ねじれは、身体の「出る・出ない」の生理現象に関係します。ねじれ調整をし、足裏やふくらはぎを冷やさない事が、この時期の注意点です。足裏は腎臓、ふくらはぎ左は生殖器、右は消化器の関係です。
2019年 8月号
「いただきます。」には他の命を頂かせていただく。という意味が込められています。子どもの頃、お百姓さんに感謝してご飯を食べなさい。と教えられました。
木村は「目がつぶれる」と云いながらご飯粒をそれはそれは丁寧に一粒残さず食べます。そうやって食べ物への感謝と食べ物を粗末にしないということを子供の時から教えこまれてきた年代の私たち。私たちは「食」を通して、色々な事を学んできました。
「命」「感謝」「喜び」「信頼」「友情」「安堵」「満足感」「健康」「社会性」「自然性」食は人間性の形成と切っても切れない関係の中で、当たり前に一番身近にあるものです。そしてそれが充実するために生産、流通、保存などの形や技術はとても進歩しましたし、享受しています。しかし、その生産性の変化(自国の農産生産量の減少)、流通(身土不二の崩壊)、保存の変化(化学的、遺伝子操作)により、季節や土地柄に関係なく、どこの国の物でも、いつでも手に入る。という事も関係し、食の形態が今は随分変化しています。
「食」は全ての事に繋がっているだけに、どの切り口で考えるかで色々な見方が出来ます。
最近「7袋のポテトチップス」という本を読んでその中で、食生活と価値観の推移を世代ごとの食の記憶を繋げていくことで書かれているのが興味深く、考えさせられました。
「食べるを語る、胃袋の戦後史」という副題がついています。その中に、食の評論家、岸朝子さんの比喩が紹介されていて、『かつては空腹を満たすために「胃袋」で食べ生活に余裕が出てくると「舌」で食べさらに見た目の美しさや珍しさを「目」で食べそして食べ物の成分や栄養などを「頭」で食べる時代に移り変わっていった』という部分があり、なるほどと思いながら、その思考形態の変化に伴い、どの成分をどれだけ取り入れるかが大事にされ「食」の飼料化(サプリなど成分重視、栄養素重視)になっているのかなと感じます。
「目」で食べようが「頭」で食べようが、取り入れれば身体全体に影響し、我々の血肉になる訳で、取り入れられる側の人間の機能は変わっていないのです。最近飼料的に抽出物で食を処理しようとする人たちが、肝臓負担から、体調を崩すという事を耳にします。
人間の身体は本当に賢くて、喜んで食した時と怒って食した時には、身体が同じ食物を毒として扱うか、栄養として取り入れるか選択しているそうです。そうなれば、何を、誰と、どんな状況で食すかという環境も一緒に体に取り入れているという事です。
最近は家族でも其々が、好きな時間に好きなものを食べる。社会の形態や、生活様式でそうせざるを得ない人が多いと聞きます。家族の中での個食です。同じ釜の飯を食う(家族間の連帯、信頼)という言葉は死語に近い。友と一緒に食事をするときも、其々好きなものを食べる。こうした社会の変化の中で、食べ物を通して、「何かと共に在る」とか、その食べ物の向こう側にある世界に思いをはせるなどという事が少なくなってきているように思います。
以前「フィリピンのバナナ」について、会報で書いた事が有ります。我々が安いバナナを食べるために、フィリピンの農場で働く労働者の人権無視された過酷な労働と、農園を作るために住むところを追われている現地の人々の生活を知らされた時、安易に手に入るバナナを食べないという選択しかその時の自分には出来ませんでした。
食べ物を通して、実にたくさんの事が見えてきます。そのものの背景、素性までも一緒に自分のイノチに取り入れているという認識があれば、そして何を、誰と何時、どのように取り入れるかが自分の満足感や喜び、健康に結びついているという事を考えれば、「飽食」「孤食」「崩食」の時代に「食」の共在感覚を取り戻すきっかけになるかと感じます。
8月の養生は、五行の一つ「心」を養う食べ物、苦み(ゴーヤなど)、赤い食べ物(トマトなど)を意識的に取り入れてみましょう。水分をチビチビと取り入れましょう。しっかり汗を出し、汗の処理を正しく行い内向させない。特に首の汗の内向現象は色々な問題を引き起こします。
2019年 7月号
今月は参院選。 ヨガと政治は・・・とか目先の生活に追われていて政治どころでは無い。 等々ご意見を頂きますが、矢張り政治に影響を受けない生活などあり得ないので、書きます。
先づは、何故生活に追われる状態になっているのか、しっかり見極めて、民主主義とはなんぞや、権利と義務とはなんぞや、と明確にして投票はしましょう。
手っ取り早く自分が安心出来るニュースだけを求めずに、今やテレビも、他のメディアも、真実を伝える為の道具では無くなっているという事を、踏まえて安倍内閣で行われた、「格差社会」「法人税減税」「消費税増税」「年金制度崩壊」「年金資金を使った株価つり上げ」「お友達優遇」等などやりたい放題だった時代をなんとか止めなければと思います。
この状態が続けば、やりたい放題の一つだった、嬉しがってアメリカから買わされたオスプレイやF35戦闘機等が、日本中の空を飛び回り、沖縄の人達がどんなに、生活を脅かされていると声を上げても、無視され続けてきた状態が、日本中でおこる事でしょう。それ程沢山の戦闘機を買い込んだ訳ですし、民意など意に介さないのですから。
安倍内閣で国民が、教えられたのは、隠蔽、改竄、忖度等、難しい言葉と、諦め、失望、はぐらかしという状態です。
何とか、今回の選挙は、諦めないで、細やかな希望を取り戻しませんか? これは、政治活動では無いのです。自分の命と、生活を守る為の思いです。
89歳の母に介護保険は上がるし、介護料は上がるし、二重取りされている。と私が不満げに言ったら、「小さい声で言いなさい、誰が聞いているかもしれない。」と注意されました。「憲兵がいる時代だったら大変だったよ」と、御上に逆らう事は、言えないと言う事が身についている世代です。真っ青です。
国民が「共謀罪」などという時代に合わない法律に脅されず、自由に考え発言出来る社会、なんびとも、その人格、尊厳を守れる社会それが実現されなければ、本当の民主国家とは言えないのでは無いでしょうか。
いよいよ夏本番。
しっかり汗をかいて、その処理をするという事が、養生の基本です。大腿裏筋を伸ばす。呼吸活点を抑え左右に動かし、緩め、呼吸力、排泄力をつけましょう。呼吸力、排泄力の弱い人は暑さが苦手です、頭頂部を冷やせば暑さが抜けます。首は冷やさないこと。
2019年 6月号
スギナの効用
先日、スギナの効用のプリントが征さんから送られてきました。そういえば、私の持っている資料の中にも別の人が書いた「スギナの効用」の資料があったことを思い出し、スギナを試してみようと思いました。情報として教室でも流しました。2、3年前に友人が、骨粗鬆症の治療薬よりスギナ茶を飲んでカルシュウムが増えたと言っていたことも思い出し、何よりこの時期の畑にはスギナがびっしりと生えているので摘まない手はないと、5月の畑作業はスギナ摘みでした。
20Lのバケツに2つも摘んで洗って、ベランダいっぱいに広げて干してもらい手のかかることでしたが、うまい具合に 乾燥し、生徒さん達にも配れ、何か安心を手に入れたような気分になりましたが、自分はどうも味が苦手。あるクラスでは皆の分を摘みに行って乾燥させクラスのみんなに配ってくれた奇特な方がいて、スギナの効用よりも彼女の気持ちや行動力の方にエネルギーを頂く場面もあり、ささやかなきっかけで見えてくるそれぞれの人となりに学びを頂きました。彼女はスギナ茶が美味しいと言います。
ネットで調べると、色々効用も害も書かれています。先ずは、自分に合うのか、必要なのかの見極めから必要です。 今回のスギナに限らず全てにおいて、これは良いこんな変化があった、という情報が入った場合、私たちはその物に値打ちあると捉えがちですが、全ての物に良し悪しは無く、合う人と、合わない人があるという事を初期認識した上でのお試しが必要です。
正に、「信じるな、疑うな、確かめよ」の世界です。しかし、自然の恵みは、加工物、合成物と違い、それ自体で完結している分きっと合う人には、素晴らしい恵みを与えてくれるのだろうと思います。身体に入れるときには1、2週間で、一度やめてみる。 様子を観察しながら、取り入れる量や回数をチェックするという事が、お試しの知恵です。
それは食事でも言えることで、必ず3食取らなければという迷信からも離れ、2食にしたり無食にしたりしてみると、自分の適食が解ってきます。「自分に取り入れて良いものと悪いものを知っているのは、体自身に与えられている智恵である」と「誓いの言葉」にもあるように、自分のイノチの欲求にいつも敏感であることが必要です。特にこの時期は、同化、循環、排泄の三系のバランスが乱れやすい時期です。
健康でいたいと思うとき、一般的には、何を食べたら良い、どれだけ寝たら良い、何をしたら良いと、入れる事(同化)ばかり考えがちですが、何より排泄系(大腸、腎臓、膀胱、生殖器)を整えることが大事です。しっかり汗をかいて、脳や筋肉の疲労物質を出し、排便、排尿を整え、エネルギーの出し惜しみをしない。排泄系が整えば、循環もスムーズになり、健全な気分と身体を手に入れる事が出来るのです。
梅雨の季節はリュウマチや神経痛、頸腕症等の神経炎も出やすくなりますが、しっかり発汗することで、症状が和らぎます。また食中毒が起こりやすい時期ですが下痢は出せば終わりです。止めずに出し切り、足指第2趾、手の合谷などで調整しておきましょう。
2019年 5月号
先日、古い沖ヨガ仲間が、木村を訪ねてきました。
色々話しているうちに一緒にいらしていた方も昔、沖ヨガに救われ、沖先生のカバン持ちをしながら海外の沖ヨガ道場にいたと話していました。一時仕事の関係で中断していたけれどまたyogaの世界に戻ってきたというこの方は、沖先生のおられなくなった沖ヨガに戻っても、学びに行けるところがなかったと話していました。
沖先生に習ったから沖ヨガではないと常々思っていました。其々が沖先生から学んだことを自分の中で昇華させ、沖ヨガの哲学、真理を外さないヨガを伝える事が出来て初めての沖ヨガだと思うのですが、そうなって初めて、沖先生のおっしゃる「ひとり一宗」、俺が死んだら沖ヨガはないとおっしゃった意味だと理解しています。
そう考えると、本当の沖ヨガを教えておられる方は本当に少ないのではと感じていた昨今だけに、改めて沖ヨガについて考えさせられました。
沖ヨガの先輩達は沖先生がこう仰っていた、こう行動されていたとよく話しています。沖先生とのやり取りを伝えて終わるなら長く沖先生と一緒にいた方にはかないませんが、その言葉の中に込められた真理と哲学を自分なりに読み解くという作業を通して得たものを伝えて初めて沖ヨガを残すということかと思います。私は、直接沖先生には就いていないけれど、その作業を繰り返す木村を通して、又その前に就いた吉川先生を通して沖ヨガを理解しているつもりです。確かに実践哲学なのです。
Yogaは体操でもないし、ストレッチでもない、動禅として伝えるとなれば、本来の動物である人が立ったことでひずむ体の使い方、発生学的な側面、心理的な、行動学的、環境的な側面全てを包括したうえでの身体や心の使い方、生活のしかた、生きかたをお伝えできるなら、そしてそこに沖ヨガの哲学性と真理を伝える事が出来るなら始めて、沖ヨガを語れるかなと考えさせられた客人との時間でした。
昔、道場での子供ヨガや病気の人たちがたくさん来ていて、救われたという人も多いのに、どうして沖ヨガに人材が無いのかとよく話します。其々に自分ヨガをしておられる方も多いのでしょうが、「会」として纏まろうとすれば、会としての性格が出来てしまい、そこにある種の個人色が働けば、もうそこは、ヨガの会ではなく利潤追求会社になってしまいます、そうなれば、お金で資格を買う的な体制が当たり前に出来上がり、指導者の大量生産が起こるというのが、今のyoga界です。
実にたくさんの指導者がいます。yogaを目指し、縁あって指導者になった人たちに如何に良い先生になってもらうべく本来のyogaを継承していくべきかが、我々長くヨガに携わってきた者の使命かとも感じています。
肝の働きが高まる時季ですが、自家中毒症状がみられる人が多くなります。
(門脈循環…胃、腸、膵臓、脾臓からの静脈血が門脈を通り、肝臓に送られ、再び肝臓から、肝静脈を通って下大静脈にそそぐ。)
この門脈循環を腹心還流と云い、肝臓、腎臓、脾臓などのすべての内臓を還流して心臓に廻る循環系です。栄養過剰になるとこの腹心還流が悪くなり、腸や肝臓、腎臓、心臓にうっ血をおこし結果、同化力、排泄力が低下し、血質と循環が悪くなり、自家中毒現象をおこします。アレルギーや、精神的な病も自家中毒現象です。
肝心行気(左手を肝臓、右手を左わき下に当てる)で、腹心還流を整え、食を減らし体調管理をしましょう。
2019年 4月号
7か月の孫を預かった一日。
何の不満もない、文句のない赤ん坊。見ているだけでずーと笑顔が絶えない自分。
連れてこられたときに、周りを見回して大泣き。じいちゃんの顔、ばあちゃんの顔、順番に観ながら観察中半べそ。時々、大声で泣いて脅しをかける。ママが出かけて行った気配を感じてちょっと泣いてみる。その後は諦めたのか、ずっと上機嫌。テレビの白鳥の湖のバレーをジーッと見入って、指を動かす。そんな小さな仕草にこちらは、「反応している。音楽が好きかも。踊りが好きかも」と勝手に思いを巡らす。
今日の使命は「怪我をさせない、機嫌よく過ごしてもらう、親のいない間、不安なく居てもらう。」ただそれだけがこちらの思い。一日中どちらかが張り付いて見守る。家事は進まない、何の仕事もできない。でもとっても充実した感がある時間。
イノチと向き合っている感覚。不思議な赤ちゃんという命の塊。エネルギーを沢山もらった感があるのに帰ったら二人ともヘロヘロ、早めの食事のあとは、二人とも、うとうと寝入ってしまった。 命の塊に触れて、一緒にいるだけでこちらの生命力が歓喜している。
畑で福寿草を見つけた時、あのエネルギーと重なった。透き通った黄色の可愛い花のエネルギーと、力強い生命力が可憐な容で小さな体いっぱいにはち切れんばかりに詰まっている赤ちゃん。まさしく春の生命力にあふれる自然界と、人生の芽生えの時期の赤ちゃんがシンクロしました。
三寒四温を繰り返しながら、温かい日が増えていき、身体は骨盤が開いて上がる時期です。骨盤の開閉力は行動力に繋がります。冬の間にため込んだものを全部出し切り身体の水の流れを新たにします。新たな事を始めたくなる身体の反応を大事に、小さなことからでも初めてみましょう。動物である私たちの生命力は行動力という形で表現されます。
4月は腹を充実させる動き、気を降ろす四股立ち、骨盤の開閉、胸腹式呼吸等で整えていきます。
2019年 3月号
あっという間に2月も終わり。
いよいよ春間近の暖かい日(2/20)昼頃に出かけるときには何の変哲も無い普段と同じコブシの街路樹が、夜の帰り道、白い蕾を枝いっぱいにつけていました。午後から気温が上がっていたのですが、植物たちの反応の速さに驚きました。正直というか、敏感というか我々の身体もこの位、素早い反応を示せば、歪まず、季節にのった身体の状態になれるのに、と思った自然のいとなみでした。
生命力が一番発揮される時期ですから、逆らう身体の状態は、精神的にも大きく影響してしまいます。頭蓋骨や肩甲骨が順調に開かないと、ため込んでいた思いの毒が捨てきれず、うつ状態に陥ったり、他に対する攻撃になったりと、人によって出方は違えども、人間関係という形で表れてしまいます。(これが、性のエネルギーが高まる春の特徴です)
自分を縛っているのは、この関係性の中にあると思っているうちは解決のしようがありません。自分に起こることは自分が引き寄せているご縁の中にある。ヨガ的には自業自得と捉えます。「全ての事には原因がある、全ての事にはその結果がある。」それがヨガで言う自業自得です。(一般的に言われている自業自得は結果が悪く出た時に使われるようですが、解釈が少し違います。)
まずは身心息を整えてみる。結果、本来の自身の感性が戻り、気づきが生じ解決の道が付きます。
季節にのった体を作れるよう自然生活を意識して暮らしたいものです。新しい事を始めたい、旅行に行きたい、部屋の模様替えを、等々行動力に結びつく事は春の当たり前の身体と心の状態です。
めいっぱい気分を陽にして、春の陽の気を取り入れ元気を発揚させましょう。春は、全てが始まりの時、植物は芽を開き天に向かって伸び、自然界のもの全てが硬さを解きほぐし開放に向かう時期、身体は骨盤が開き上がる時です。身も心も柔らかく、伸び伸びと、ゆったり、深い呼吸で、青春ともいえる季節を謳歌しましょう。
教室では、肩甲骨内縁を緩め胸を開く、骨盤の開閉力をつける、動きが中心になります。
先月は、上がる気の準備に、飛ぶ動きを入れました。これは今月も続けます。
2019年 2月号
あっという間の2月です。
阪神大震災からもう24年。ボランティア元年と云われ、被災地にボランティアの方々がお手伝いに入ることが当たり前になってきている昨今、手伝い方も色々考えなければいけないようですが、それでも素晴らしい事だと思います。
24年前は、私も炊き出しなどのボランティアをし、神戸に泊まり込んだりしながら頑張りました。その時には、唯々何かしなければという思いが行動力を生みました。 公園でテント暮らしをする人々に少しでも温かさを感じて欲しいと願いました。当時も「自己満足だろう」と批判する人はいましたが、何を言われても気にせず流せていました。
そんな事に関わっている時間もおしいという感覚でした。しかし、その後リーマンショックがあり失業者が増え、2008年「年越し派遣村」が発足しました。 それから10年の間に路上生活者は減るどころか増えているようです。去年の暮も恒例の炊き出しがあり、そのことに対し、ツイッターで「偽善者!」との書き込みが並んだという記事を読み、胸が痛くなりました。
「そんな書き込みをする人たちは本当に現場を知らない、温かい部屋にいて具体的な経験も無く、人の身になるという想像力もなく、無責任に批判する人達なのだろう」、と切り捨てておけないくらい、そのタイプの人が最近は増えているようで、社会の風潮に恐いものを感じてしまいます。 昔も確かにそのタイプの人はいたのです。しかし、何かある度に、人の批判をし、無責任に、「自己責任」「偽善者」等と書き込む輩。 そんな人が増えていると感じるのは簡単に表現できるようになったからでしょうか。
物事の本質を見ようともせずに流されて簡単に書き込むとしたら、ツイッターの使い方、使う人の人間性を問われても仕方がないように思います。自分が発することに責任を取らない、出しっぱなしできるというシステムに問題があるのでしょうか?
暮れの寒空に、住む場所もなく炊き出しに並ぶ人々、寒い中、休み返上で困窮した人々に寄り添う人たち、家の中から「偽善者!」と罵倒する人。この構図が、今の日本社会の価値観の多様性?などと、考えたくはありません。寒々とした気持ちになってしまいます。
人の本質の中には、愛が根底にあるはずです。
「愛とは、正しく生きることに協力する心」、と沖ヨガでは教えられています。
生かしあい、活かしあう。相手の立場でものを見る想像力を働かせましょう。裁く心より許す心を養いましょう。心、身、霊、全てのバランスを見た生活の仕方や物事の捉え方を訓練しましょう。
寒さに胸が縮んでいると、感じ方、考え方も消極的になってしまいます。
胸を開くポーズを中心に、春の身体に移行する過程をスムーズに出来るよう身体の働きに協力しましょう。水分不足で起こる目の疲れは、後頭骨の開きを悪くします、水分をまめにとり、眼の温湿布をしておきましょう。
2019年 1月号
あけましておめでとうございます。
平成最後の正月です。
年末には、大掃除をして、色々な物を捨てられる気持ちになりました。冷凍庫にしまい込んで食べきれずに古くなった沢山の物を捨てる時、どうして何でも取っておきたい自分なのかと、捨てられないこの性格を何とかせねばとつくづく思いました。そろそろ終活を本気で考えなければならないお年頃なのに執着心なのか拘りなのか、頭の整理が出来ない人なのか考えさせられてしまいます。
新しい年を新たなる気持ちで迎えるべく、自分の心が形となって外に現れているものを変える努力をせねばと意を決している年の始め。
無意識な生活の中で習慣的に同一の心の働きや、生き方をしている訳ですから、自分の癖や習慣を意識的に変えるためにはどうすべきか考えています。
沖先生の講演集の中に
一番よい方法は自分の心を、過去にひき戻す条件となるものを捨ててしまうのです。
正しさは自然の中にあり、異常苦をつくり出すものが不自然であると教えられております。自然は絶えまなく変化しているものですから、私達の心身及び生活が、絶え間なく変化していないと不自然になってしまうのです。
この変化の邪魔をするもの、それが習慣であり、記憶であり、執着であります。生命(自然・神)は変化しないことを許しませんから、私達が古きに止まっていると、直ちにその脱皮運動を展開致します。この時に伴うものが苦しみであり、心のもがきであります。
「変化、バランス、安定」
「拘るな、とらわれるな、ひっかかるな」ヨガの教えの中に実に端的に教えられていても、自分の心の状態や生活をこのように整えるのは本当に難しいことです。改めて変化の邪魔をしている囚われや拘りと向き合ってみようと思います。
新しさを求めるのは進化を求める心の願いの現れですから大事に向き合わねばと思います。
冬の養生法は、真水を身体に取り入れることです。寒くなると体温の発散を防ぐため身体を縮めます。身体の締まらないところを締めようとする働きが風邪症状です。
身体の急所は、頭に関係する眼、上肢、首、上胸部、アキレス腱といった所です。此処を硬くすると頭が過敏になります。これらの養生をし身体を整えることは大事です。
しかし真の健康法は、病気を治すことや、予防することではありません。感受性を育み自分自身の心、 身体、生活に、「快」を感じ、生命力を完全発揮して生きる事そのものに「喜び」を感じられる生き方ができる事です。
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