2015.03.01
私たちは自然の中に身を於くと、自分のイノチとの共振を感じ、神を感じるといったことが起こります。
どの様な場でも、時でも神は己のイノチの働きの中に存在し、周りの物(神)と共振し合ってそのイノチをいかしてくれています。
人の出会いも組み込まれた神の業。自分に起こるすべての事が必要な神の業。
ある日、ある神社のご神体の前で祈っている時にふっと、その横の庭に見えた花に意識がいき「完璧だ」と感じました。
そのとき、自分の内側に「お前の存在に必要なものは全て揃えている。……云々、今日一緒に来ている者もお前の協力者としてどんな時でもお前を助ける為に使わした。」という言葉が聞こえたように感じました。
一緒に行ったのは主人ですから、確かに協力者です。が、私が彼の役に立てたら良いと思っているわけで、彼が何かなす為にと日頃思っているので、まるで自分の為に存在するような言い方に聞こえたとは言えませんでした。
それから、何年もたった今「僕はあなたの役に立つことなら、何でもすることが、嫌だと思ったことはない。」と主人がいいます。
その昔「俺の時間を使うな」と平気で云っていたということを自分でも云っていました。「そんな自分が、私の為に何かするということは自分の役目だと思う」的なことを云うのを聞き、ふっとその昔のその言葉と同じだと思い出しました。
二人で話した結果、多分私の希望的思いが、そんな言葉を聞かせたような、状態を作ったのだろうということになりましたが、それでも、わたしの思いを叶える事に協力者が居てくれるということは、自分の成すべきことは、自分の役目とは何なんだろうと、模索している自分に気が付きました。
どの生も其々にお役目があり、生かさせて頂いているということは解っても自分が生きている、生かさせて頂いている意味に気づける人は少ないと思います。
何かを成し遂げることがお役目では無くても良い。
存在そのものが仕組まれた意味であるとも感じます。
「あるがままただありがたい」それが、イノチの意味だと。
今を「精いっぱい生きる」これこそが神の思惑なのでしょう。
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