2013.02.11
僕の思う「ヨガ」という言葉、そして世の中の「ヨガ」という言葉とは全く違うもののように思える。
僕の中では、神秘的なインドのヨガから始まり、沖正弘師の説くヨガになり、そして僕自身のヨガという変遷があり、出発時点でも途中経過でも、近寄りがたい崇高な世界を意味する言葉として捉えていたように思う。
今もその感覚がないわけではないが、沖先生の作った「生活ヨガ」という言葉、これにはカルマヨガの意味合いもあるが、高みを目指すのとは反対に、卑近な毎日の一挙手一投足を意識的に捉えて生活する、ということで自分の生活にヨガを引っ張り下ろしてくる感じがある。
このおかげでヨガという言葉を使うとき緊張しないで済むようにはなった。でもネットを見ると今はあまりに多くのヨガ、多くの教室、多くの先生、多くの宣伝・・・、そんなに簡単にヨガという言葉を使えるのかな? と思ってしまう。
体操することがヨガならたしかにことは簡単、そしてそれにまつわるイベント、おまけ、特典、とコンビニで買う商品と変わりなくなくなってきている。やはり、最近のこの言葉は僕の中にあるヨガという言葉とは異質だ。
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