自分らしく生きる生き方そのものが人を健康にする

NVY-intro36

ナチュラル ヴォイス ヨガ入門 36

 和気愛会 2017年2月号 (No.209)

 《ヨガをするとは喜びを求めることだ》といつも書いている。
 私の考え出す動きや呼吸法は全てそこを原点に生み出している。でも、ヨガを深く知らない人にはこんな抽象的な表現では分かってもらえないのかもしれない。

 もっと具体的に何をすればよいのか、毎日これさえやればよいということ、すなわち「ヨガというものを掴むことのできるルーティン」を教えて欲しいという要求がある。

 要はこれとこれを毎日やれと指示してほしい。それで効果を出し、健康や心の安定、できればいいスタイルにもと、求めるところに近づきたいというわけだ。それにはどうすれば、どんなことをすればいいのか?

 私としては毎日毎日それを求め少しずつ自分に実現をしてきた。気が付けばもう50年もやってきた。長くて自慢できるわけではないが、人それぞれ条件が異なる。才能の問題や環境の問題もあるし、家庭の問題も大きい。

 成長の過程ですくすくと育った人、栄養や健康に問題があった人、身体や心の大きな傷を負ったか手術をした人、それらのことでもそのあとの進み方が大きく変化する。
 
 私の場合は心の問題も体の問題も結構大きかった。それほどの大病をしたわけではないが、10代の前半に背骨を傷め、それが歪みと緊張を引き起こし、16歳くらいからは精神的にも肉体的にも、どんどんボロボロになった。

けれど、西式健康法やコンニャク(野口)体操に巡り合い、20歳を過ぎてヨガに出会ったことで方向が変わり始めた。

 しかし、持ち前の素直ではない性格のせいか、一生懸命にはやるけれど、人の言うことを聞かず我流が強すぎてなかなか的に真直ぐ向かえず、右にずれ左にずれしているうちに、気が付けば50年も経っていたというわけだ。

確かに成長が遅く、効率はあきれるほど悪かったけれど、その分、ああでもないこうでもないと、色々なやり方をしたことが自分の栄養にもなった。そして、うまくいかなかったことが多かった分、他の人のうまくいかない原因と対処法が分かるようになったという大きなメリットもあった。

最初は音楽家を目指していたのに、演奏家としてやるには時間がかかり過ぎたかもしれない。けれど、他の人の身体や心、そして声についての把握度はずいぶん高くなった。

演奏家になることは来世までお預けにして、せっかく分かったことをわかりやすい言葉と方法を使って、もっと多くの人が心も体も声も楽になる方法を見つけたい。

ということで、ルーティンワークの要望にも応えれるものなら応えたいとは思う。でもそのためには人間のジャンル分けとそれに対応する公式を作らなくてはならない。この一人ひとり違う人間の、生きている心と体を自分の思う方向に持っていきたいというのだから、算数を解くようにシンプルにはいかない。

現象からみても関わりのあるファクターが多すぎる。例えば食事のこと、どんなものをどれだけどんなタイミングで食べればいいのか、食べるという選択があるなら食べない選択もある。

睡眠のことなら、どんな時にどれだけ寝ればいいのか、どれだけ寝ない方がいいのか。身体の使い方心の使い方・・・と考えて行けば、現代の科学がやっているように生きるということ全てを数値化や定量化をして、生きる質を量に換算するというナンセンスなことに取り組むことになる。

 現代の科学ではこんなことをやっている人も多くいるがそれは生きるということの意味を解していない所業だ。

 それでは生きる質を問うためにはどこを焦点に当てればいいのだろう。それはいつも言っているように“生きる喜び”を間接的に得ようとするのではなく、直接的に得る方法を見つけるしかない。

間接的というのは、例えば、健康になれば幸せになれるだろう、そのためにはこんなサプリを摂ればいいだろう、それを買うにはもっとたくさんお金を稼ぐ必要がある、儲ければもっと幸せで生きる喜びが増えるだろう・・・などと考え、こんな三段論法の積み重ねで行動することだ。

だが実際にはそんなやり方はほとんど役には立たない。少なくともヨガの求める人間の把握の次元には到底及ばない。

 その上ヨガの実践はといえば体を柔らかくするのが目的かと思えるようなやり方をする人がほとんど。でも沖ヨガを標榜する人ならそうではないかもしれない。身体が柔らくなっても、それで生きる喜びが増すわけではない。その考え方は焦点がずれている。健康すらそれで得れるとは思わない方がいいだろう。

 それにしても喜んで生きなさいというだけではあまりに抽象的過ぎるかもしれないから、その状態を自ら生み出す方法を考えそれを実践してはどうだろう。

 喜んで生き生きと生きているときにはどんな体の使い方をしているだろうか、豊かな気分で満たされているときにはどんな心の使い方をしているだろう。
 面白くて面白くて仕方ない時はどんな食べ方をしているだろう。生きがいがあって元気でバリバリ働いているときにはどんな姿勢をしているだろう。気持ちが落ち着いているときにはどんな呼吸をしているだろう。
 そこでじっくりと考え、心が調い体が調っているこんな状態を突き詰めて、今の自分に分かるようまとめたらどんな言葉になるのだろう。

 私にとって、今もし一言でいうとしたらそれは“和らいでいる”ということだ。

それは広がり、温かく、穏やか、透明で、爽やか、引っかからず、捉われず、拘らない。そんな和らいだ笑っている状態を体と心で実現する。そのためには自分が実験者であり、自分の心と体が被験者だ。

 何を食べたら和らぐのか、どんな体の使い方をすれば和らぐのか。和らいでこそ目的が達成される。
 体が緩み心が楽になり、緊張が無くなる。そうすれば私たちが持っている本来の安定感、安堵感、を持つことが出来、そこで自由に動き躍動感を感じることが出来、自分の意図した通りに身体や心を使うことが出来る。そこで初めて捉われない自分を観ることが出来る。

 私たちは知らず知らず体や心が硬くなることで不自由になっている。まずは和らいで自由感を得る。そこにこそ生命の喜びの源がある。

 身体は固まらず留まらず躍動感のある状態、心でいえば、捉われない拘らない引っかからない状態だ。何かに引っかかって自由になれないことが私たちをイラつかせ不安にさせる。その次には心を沈ませ、あきらめに引っ張り込まれてしまう。

これを言葉ではなく心と体で実践しなければ、結局は抽象的な言葉で終わってしまうことだろう。



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