ちょっと長いですが、2011年8月号和気愛会に掲載したものをそのまま掲載します。
私がヨガを教えるようになったきっかけ、ヨガを伝えるということの原点になったことです。
私がヨガを始めたのはまだ21~22歳の頃でした。若かったからか、学校にもあまり行かずヨガ漬けの生活をしたからか、始めてまもなく体が柔らかくなり、色々な難しいポーズもできるようになりました。そして呼吸法も面白くて色々やるうちに体がとても元気になったのです。
幼少時からどちらかというと弱い子供として育ってきたのですが、始めた動機が声を良くするということで、健康目的ではありませんでしたから、元気になったのは私にとっては副作用のようなもので、とても驚かされたものでした。
2年間の独習後、沖先生の本に出会い、腕試し気分で沖ヨガ道場に行ったのですが、青天の霹靂、2週間沖先生にしごかれたことで、私の価値観は180度ひっくり返り、周りからは別の人間になったのではないかと思われるくらい生活が変貌しました。そして家に帰ってからは、沖ヨガ - 私にとっては、道場で学んだこと、沖先生の話や本の内容、断食など - を、がむしゃらにやっていきました。
寝ない、食べない、働き続ける、がその頃のスローガンでした。また、最初の4~5年はひたすら沖先生のテープレコーダーになって、口を開けば沖先生の言葉が口から出る熱狂的信者をやり、そのことに気付いてこれではいけないと、今度は沖先生の言葉を使わない訓練を4~5年やるうちに、私の中に「これは自分自身の体験で感じる私自身の言葉である」と思える一つの確信が強く起こってきて、これを多くの人に伝えたいと思うようになりました。
当時思っていた人に伝えたいこととは、「人が健康になるのも幸せに生きることもすべて自分の身につけた能力次第。喜べる、感謝できる、そんな能力を自分の身につけることが必要だ。そしてそれを身につけるために、生きがいを持って生きるためにこそヨガで心身を調え、心と体の能力を高めることが必要なのだ。」ということでした。
30歳になった頃、ヴォイストレーナーと歌の先生をしていましたが、生徒にはヨガをさせ、ヨガの合宿セミナーも度々開いていました。このころにはヨガ教室も所々にできていて、自分もヨガ教室をやりたいと思うようになりました。内容はヨガだが体操教室とは違う「生きがい教室」という名前がいいかな? などと思っていました。
そんなある時、沖先生が大阪に講演に来られたとき、講演会の始まる前に「ヨガ教室をさせてください」とお願いをしました。ご返事をいただかないまま講演が始まり、私は会場の一番後ろで聞いていたのですが、沖先生はいつものように体や心のことをお話しされていました。
お話の一段落ついたところで突然、講演の席から、「木村っ!! ヨガはこういうことを教えるんだ、こういうことを伝えるんだっ!!」…「こういう話ができなきゃだめなんだっ、わかったかっ、木村っ!!」と、叫ぶような、とてもとても強い言葉で言われました。その瞬間、驚きと怖れ、そして何でしょう、与えられた責任の大きさや重さのためでしょうか、顔や頭から火を噴くのではないかと思うほどカーッと熱くなりました。
本当のことを伝える意思のない、またはその能力のないヨガ教室が乱立しつつある状態に我慢ならないという心がそのままぶつけられたのでしょうか。ただそれだけのご返事でやってよいとも悪いとも一言もありません、でもどうやら許可が出たような感じなので、それ以来あちらこちらでヨガ教室を開き、合宿を催し、歌の生徒に個人的に伝えたり、カルチャースクールで教えたりしていました。
それから10年近くたって父親の会社を引き継ぐために教室活動や経営はやめましたが、ずっと色々なところで指導を続けています。しかしこのときに沖先生に太く大きな釘を刺されたことは今も私の中で生き続け、私の原動力にもなっています。
現在のヨガブームの火種を付けた沖先生ですし、健康のことも多く説かれました。しかしヨガはそれだけを相手にするのではありません。人間としてどう生きるかをヨガが教えており、また健康や成功、そして世界平和までそのなかに包含しているということをまず自分の心と体と生活に実現しつつ、それを世に伝える使命を私たちが担っているということを沖先生は説かれていたのです。
→ 笑いの行法
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