2012年 12月号
今年も最後の月を迎えます。此の一年をどのように過ごして来たかと、自戒の念を持ち、改なる気持ちで年神様をお迎えする準備のひと月を過ごすのも私にとってのヨガ行です。
ご縁あった方々への感謝心、ご恩に報いることの出来なかった詫びの心等、色々な思いが交錯する中で、布施行に照らして自分の思動を見るのも一つの方法と捉えています。
“永平寺の中食(ちゅうじき・・・昼食)では、生飯(さば)といって、給仕してもらったご飯の中から各々が、お米を7粒ほど差し出し、浄人(じょうにん・・・給仕役)がそれを全て集めていきます。 集められたご飯は、僧堂の外にある生飯台という石の台に乗せて、鳥や虫に施されます。 この行為のベースには、自分が受けている恩恵を、是非とも他なる存在にも受け取って頂きたいという思いがあるのです。”
此の話を聞いたとき、生かされている存在としての私たちが、自分以外(全ての命)の存在に対して生かしあう心(慈悲の心)を持てば人の心は我欲から開放されると思いました。
1)財施…物質的な布施(喜捨として自分に出来ることをさせて頂く修行。施をする側もされる側も、施そのもの全てが、報われを捨てたものである)
2)法施…仏の教えを説く(物事の道理を説く、拘りや囚われから放たれる法を説き迷い悩む人を救う。人の役に立つ)
3)無為施…人の悩みや恐れを取り除き安心を与える。
財力も知恵もなくても出来る『無財の七施』
眼施(がんせ)…優しいまなざしで人に接する。
和顔施(わがんせ)…和やかな明るい顔で人に接する。
言辞施(ごんじせ)…優しい言葉をかける。
身施(しんせ)…身をもって布施する。
心施(しんせ)…心のそこから人を思いやる。
牀座施(しょうざせ)…先輩やお年寄りに自分の席を譲る行為。
房舎施(ぼうじゃせ)…困っている旅人に一夜の宿を提供したり、休憩の場を提供したりする行為。
(昔はお遍路さんなどに対して)
お釈迦さまの
「欲というものには限りがない。 貪(むさぼ)りから離れよ。」という教えを自分以外の何らかの存在に供養(供え養う)することで実践し、日々何かしら他者の為に布施(出来ることをさせて頂く)させて頂く事で自分を自由にしていくことが可能になるのではないかと思います。
寒さも本格的になってくると、空気も乾燥し、体も乾きます。
渇きは粘膜にダメージを与えます。
眼の乾きは頭の疲れに関連します、眼の温湿布をしましょう。
水分不足は鼻水、皮膚掻痒、冷えの元です。水分を上手く取り入れることで腎臓負担も軽減します。
2012年 11月号
朝の清々しさや夕暮れの夕焼けの空の色にノスタルジアを感じてしまうこの頃です。
子供の頃の楽しい思い出の中では、暑い、寒い(北海道生まれなので相当寒かったはず)といった不満はなく、出来事や行動だけが思い出されるのも面白いことだとおもいます。私たちは脳が色々な情報処理をしてくれて、残っている方が良いことだけを思い出させてくれるのでしょうか?
人間は手が発達したことで大脳が発達したといわれています。ヨガでは手の状態で心の状態が読める、内臓や身体の状態がわかる。ということで手と身体の関連を学び整えます。
掌のツボや手相、そして最近は指ヨガなどと、手や指の関連を説いた分野はずいぶん一般的になっているようですが、上肢として捉える手の関連もまたおもしろいので触れてみます。
上肢第1調律点は鎮心のつぼといわれる掌中央の窪みです。特に右手は心理的に心を沈め不安を取り除くツボで、左は生理的に不整脈や動悸など心臓の働きを整えます。
第2調律点は合谷のツボ(親指と人差し指の叉)です。
おなじみの便秘のつぼとして知られていますが、これも心理的に感情の調整点でもあります。
また外側のぺらぺらした部分は脳の血管の状態が反映するといわれています。血管が切れていたりするとこの部分が分厚くなり過敏になるといわれていますし、触ることで血液が吸収されるともいわれています。
第3調律点は手首です。生殖器の状態を見るとか腰や首の調整にも使われていますが、年とともに硬く太くなってくる手首を緩め整えていることが頑固に固まらず、生命エネルギーを高めることに繋がるのですから、あなどってはならない部分です。教室では腰を緩めるのに使っています。
今回はここまでにして、第4から第7までは次回に回します。脳が支配している我々の心身、その発達の元になった手なのですから大事に向き合い整えましょう。第3調律点までぜひ試してみてください。
2012年 10月号
味覚の秋、芸術の秋、読書の秋等々色々と表現される季節です。それだけ感覚が研ぎ澄まされる季節だということです。もちろん身体が敏感に感じる力を高めるからです。
夏は皮膚を開いて汗を出し、毒素を出し、皮膚呼吸が盛んに行われ外向きのエネルギーが高まっていましたが、涼しくなると皮膚が締まり、内側へとその感覚が、エネルギーが集まってきます。自分の内なる命のはたらきを感じ向き合い整える季節ともいえるでしょう。
秋の夜長、月と向き合い冥想などはこの上ない幸せ感を生み出すことでしょう。ゆったりとした呼吸で日々の喧騒から放たれ、自己の生命(いのち)と向き合い、生かされている喜び、お役目を感じてみるのもヨガのよろこびかと思います。
采佳ヨガ 10月
冷えは予期せぬ突然の寒さに身体が対応できない状況時に感じます。完全に冬を迎え身体が順応すればそれほど冷えとして感じないのです。
日中と朝夕の気温差の大きいこの時期冷え対策に足湯などをお勧めします。
秋口の早い時期に軽い風邪や、下痢をする場合があります、身体の切り替わる調整として、捉えておくとこれからの季節が楽になります。
脇腹に息を入れ体感空間を広げ捻じれ調整をしていきます。足裏、膝裏、内腿を整え腎、泌尿器系を整える動きを入れていきます。
2012年 9月号
暑い日が続いていますが、体には秋の変動が出てきます。
感覚が敏感になる時期ですから、自分の適食(回数、量、内容)適動(自分に合った動き)を見つけるのに適しています。
頭で考え(何時に食べる、何が体に良い等など)処理せずに、自分の感覚に任せて、おいしいと思うもの(癖ではなく)を丁度いい分量戴く。この動きが良いではなく、気持ちが良いと感じる動き方をして、自分にあった動き見つける。自分にとって必要な動きが気持ちよい動きです。快を求めていけば整ってしまう身体、心です。
「いつも感情の乱れの吹き消された、静かな境地で生きている人を聖者という。感情を流す練習を修養という。」と沖ヨガの本に書かれています。其のまま受ける心、神仏に任す心、計らいなき心、無心(対立なき心)などの形容が「流れている心」のことだとも教えられています。
「感情は生理現象と心理現象が一つになって、意識の奥で働くものである。この奥のはたらきを意識でコントロールすることは出来ない。この生理現象をコントロールする最上の方法は呼吸法だ。呼吸が静まってくると感情も静まってくる。」
沖ヨガの本には色々な表現で呼吸が心と体のバランスを取るということが教えられています。
「可笑しいから笑うんじゃない、笑うから可笑しいのだ。」などというのは最もわかりやすい表現です。色々な言葉で、事象で教えて頂いているこの教えを、「事」があったときに実践することの難しさを感じます。
歳とともに「事」と思うことが減っては来ていますが、これは、「心身統一」された状態で、ことにあたっているからなのか、鈍らせているからなのか解りません。「囚われない・拘らない・流す」ということがとてもわかりやすい例がありました。載せておきます。
「明治の傑僧で原坦山という方が友人と一緒に修行で歩いていた。そして川のほとりにきたら舟がないので、歩いて渡ろうとしていると、きれいな娘さんがきてもじもじしておった。それで坦山は私が連れて行ってやろうといって抱えて向こう岸まで行っておろし、スタスタと歩いて旅を続けた。ところが一里か二里ほど行った時、連れの坊さんが坦山に、「おまえは、とんでもない!女の子なんか抱えて」という。そこで坦山は「お前はまだ抱えているのか?」と一喝した。
2012年 8月号
「人間は、自分のしたことを反省する生き物だ。だから失敗やあやまちを犯したとき、自分の心はいまちょっとへんだな、と気づくことができる。けれども心をこうしたいと思っていても、なかなか思うようにはならないものだ。」と「ヨガの喜び」の中に書いてあります。
心を自分の意思でコントロールするのは本当に難しい事だと思います。「心の問題は体から、身体の問題は心からアプローチして整えていきましょう。」などと生徒さんには言いますが、人には其々癖づいた感じ方考え方がありますから、身体でその心の癖をとっていくとなるととても難しいことです。
ましてや、心の癖をとることで身体の不自然性をとっていくなどは至難の業です。しかし先人の知恵はどのように体を使いなさい、どのように生活しなさい、どのように呼吸をしなさいとヨガとして教えてくれています。
不自然な生活、不自然な身体、不自然な感性が悩みや病気を作るのですから自然な状態を自然から学び、いかに自然性を身に付けた状態を作るかが心身ともに健全な人生を送る鍵なのです。
それにしても、この異常とも思われる猛暑や豪雨も自然が発している何かのメッセージなのでしょうね。適応力を高め、この夏を乗り切りましょう。
采佳ヨガ8月は
呼吸活点(腰椎2番三側)を左右動で緩め腎臓や消化器の疲れをとっておきましょう。腰の前後動で腰椎5番を刺激し排泄力を高めます。シャワーだけで済ませずに、体の調整として熱いお湯にさっと入る。首の汗はまめに拭き取る。長めのくつろぎのポーズで疲労を解消する。
2012年 6-7月号
日本の諸武道、諸芸の中には「カタ」「ワザ」といったものがあります。「カタ」「ワザ」は大切なものですが、そのものと同時にそこに込める気持ちや、態度(行動)がとても重要なこととして扱われます。
昔、茶道のお稽古をしていた時期があります。そこで叩き込まれたのは、「お茶のこころ」というものでした。お作法は勿論ですが、一服のお茶をたてる、「身構え、心配り」がその所作の隅々にまで、にじみ出た時にその人の立てたお茶の値打ちがあるのです。
ヨガを始めた頃、お茶の心と同じものを感じ、「道」というもののなかに共通する「カタ」「ワザ」を超えた所にある「心」一人ひとりの「ストーリー」「プロセス」の大切さを感じたものです。
ヨガのレッスンの時にポーズが完璧に出来なくてもそのプロセスを大事にという指導をしてきました。勿論それはそれで大切なことですが、最近「カタ」「ワザ」を追求していく姿勢の中で見つけるべきものの大事さに目覚めています。
采佳ヨガ
6月梅雨の時期には、体内の水循環が滞り、だるい、鬱とおしい、気力が出ない、そんな症状が出やすい時期です。
又、蕁麻疹、喘息、皮膚疾患、食中毒などの毒素を出し切れないことによる症状も出やすい時期です。
しっかり汗をかける身体作りをし、呼吸器の負担を減らしましょう。大腿部裏、肩甲骨の可動性、胸椎5,6、腰椎2,3,5、痢症活点、などを整える動き、呼吸法が中心になります。
7月になると汗の処理が問題になります。後ろ側からの冷たい風は汗の内向を引き起こしますので、気をつけましょう。内向する場所により様々な症状が出ます。特にクビの汗の内向は自律神経に影響します。偏頭痛、脳溢血などを起こしやすくなります、後頭部を蒸しタオルなどで温めるなどして対処しましょう。
2012年 5月号
映画の一場面ダビデ王が、今わの際にソロモンに言い残す言葉です。
「自分の心に従え」「人の心を通してしか神の声は聞こえない」と、
そうだ!そうだ!と私の感性に響きました。人はその人の見方でしか、物事を判断しないし、その人の感じ方でしか感じることができないのです。
「結局全てがマーヤだということだ」とおっと先生に言われ、(マーヤの捉え方は其々のニュアンスの違いはあるでしょうが)そのときの私には「虚妄」とか、「無明」というよりは「全ては無」であるという「無」というものがある、ということを認識しました。
我々が生きていく中で「無」をいかに正しく観、感じる事が出来るかということがヨガの訓練なのかとも思いました。無いものを其々の感じ方で判断していく。どれほど身勝手で、如何にも恐ろしいことですが、ヨガではその判断を「真理」に照らして見るという、とても理に適った訓練法があるのです。
簡単に真理といっても(真理に対する根源的無知を無明というなら)それはそれは難しい事です。しかし、具体的にそのことが自利利他として活かしあいになっているか?全てのことに価値をみいだし、ありがたいと感謝心が起こるか?事実をありのままに受け取り拝む心になっているか?自然の法則に照らしおまかせの心でいられるか?等など他にも色々、分かりやすそうに教えられています。実際にはとても難しいことですが自分自身の物事の捉え方、感じ方を再認識してみる機会になりました。
木の芽時、肝が亢進する事で重心が前にかかり易くなり、つま先→膝に重心がかかり、上腹部、胸部、前頭部に緊張が入ることで、気も上がりやすくなります。イライラ、カッカと頭に血が昇りやすかったり、気鬱になったり、不眠症状が出やすかったりする時期です。重心調整をし気を下げ、胸の緊張をとり気血のめぐりを整えましょう。仰向けで寝て、恥骨結合部に愉気をすると、前頭部の緊張がとれ、眠りやすくなります。
2012年 4月号
ヨガのレッスンの中で、「アサナをすることでその人の身体の使い方や心の動かし方その癖や、歪みを取り、冥想できる心と体の状態を作ります。」と、業についてお話させていただくことがあります。
業とは、「先天的なものとしては遺伝と霊」「後天的なものとしては習慣、癖、記憶の内容です」と沖ヨガでは教えます。業の作り主である自分自身の生活を正し、整えることがヨガであり、自己の囚われからの開放、自由な心の状態を作ることがヨガであるのなら、ヨガそのものが冥想であり、生きることそのものがヨガ「生活ヨガ」であることをしっかり認識しなければいけないのでしょう。
我々が冥想したいと思うときに目的があるのなら何をそのゴール(目的)とするのかということです。
冥想によって「平安を得たい」「自己の使命に気づきたい」「心の調和を」「幸福になりたい」「悟りを得たい」「自己を無にしたい」等など、人其々の表現は違っても其処に感じるものは同じ物のように思います。「冥想できる心と身体の状態を作るため」というのは人生の修練法です。生きることそのものが冥想であり、ヨガである、と沖先生の仰っていることが漸く、文章としてではなく分かりかけてきた気がします。
ヨガという冥想法は、我々がより自分らしく自身の生きる喜びを見つけるための不思議で、合理的な方法論なのでしょう。
お水取りも済み、本格的に春の身体です。ため込まない、出し切ることが上手くいけば、晴れ晴れと、胸が開き、深い呼吸で、生命の息吹を感じとれる時期です。肩甲骨、腰の弾力をつけ、腹部12調律点を整えることで、腰も和らぎ、内臓の働きも高まります。
2012年 3月号
『「生(せい)がいいものだと分かれば、死もまたいいものであるはずだ、生も死も同じ名匠の手によって作られたものだから」とミケランジェロが云ったそうです。生命、幸福、愛など素晴らしいものをたくさん与えてくれる名匠の手が死だけを醜悪な経験にするはずがない。』
去年の3月号のヨガのところに書いた文章です。
今年は身をもって大事な人の死を体験し本当にそうであってほしいと願い、信じることで心の整理をつけようとしています。
ヨガでの学びを通して「生きる」「生ききる」という事を考え「最後心で事に当たる」という事を観念的に捉えてきたような気がするのですが、実体験を伴う時に頭で考えるのではない本当の所(物)が解る。腑に落ちるという経験が出来ることを感じました。腑に落ちたことを明確化できることが日々考え続けている成果なのでしょう。ヨガで云うところの、形ではなく其処に向かうプロセスの大事さなのだと思います。その人其々の目的に向かうストーリーこそがヨガなのですね。
木々の芽吹きと同じに、心身も春の身体になってきています。緩みきらない所は捻じれてきます。胸を開き、腰の弾力をつけ呼吸を深め、新たなる生のエネルギーを穆かな陽射しの中に見つけましょう。冬の間にため込んだ毒素や脂肪がとけ出す時期です。腸から排泄されると軟便(下痢)になりますが、あまり問題のない体の変化です。皮膚からも吹き出物として出やすくなります。
2012年 2月号
立春とはいえ強烈な寒波に見舞われている日本列島です。
季節の変化は私たちの感性を育ててくれるのに大きな役割をしています。とくに冬は感覚が敏感に働く時期です。この様な時に内在する生命力(自分を生かそうとしている内在知の教え)の感知能力を高めることで、生かさせていただいている外的不思議な力(ブラフマン)があるということにも気づくのでしょう。
自分が生きようとする力と自分を生かしている力の絶妙なバランスによって生かされている我々に不調というお知らせが届くことがあります。その時に間違わない方法は、部分で捉えず、命の働き全体で物を見、判断するということです。
心、身、霊、全てのバランスを見たときに生活の仕方や、物事の捉え方の間違いに気づかされるのでしょう。
根本を正せば部分で不調を取り去ろうとすることの虚しさが解ります。部分の結合の命ではなく、全体のなかの一部分であると自覚できた時に謙虚に命の働きに任せることが出来るのです。現れる事象に囚われず、その裏にある生き方を見る訓練がヨガで大事にされる所です。
冬の寒さは、呼吸器に負担をかけますが、身を縮めて行動していることは精神的にも緊張を起こします。意識的に胸を開き、呼吸を深めて、寒さの中にも一瞬差し込む春めいた光を感じ、廻り来る自然のはたらきを愛でるゆとりをもって暮らしたいと思います。
采佳ヨガでは、マツヤアーサナ(魚のポーズ)などで胸を開き、腰、背中に息が入る動き、肩甲骨の可動性をつける、腕(呼吸器関連部位)の緊張をとる動きなどを中心に感知力を高めていきます。
2012年 1月号
新年明けましておめでとうございます。
初詣。年の始めに手を合わせるというのは生かさせて頂いている存在確認でしょうか。「おかげさま」を神様に感謝し、至らなさをお詫びし、新たなる心で新しい年を始めさせて頂く。どのぐらい昔からそのようなことが行われてきたのかは調べていませんが、命の神秘を感じたとき祈りがうまれたのでしょうか?
采佳ヨガ年の始めは合掌行気からはじめます。
内なる自身を生かしている気を手中に集め、目を閉じて指先から息を吐く感じでゆっくりとした呼吸を繰り返す。
行っているうちに、身体が掌の中にすっぽりと入って行く感覚になる。それが宇宙全体を包んでいく感じになり、やがてその手も無くなっていく。自分の手と身体が一つに纏まっていき、意識拡大していった気が宇宙意識と共振していく。そこまで感じることが出来れば何かしらつかんでいけるようにおもいます。
手の状態は脳の状態を表すといわれています。手が硬くなれば頭も緊張します。手が温かく、柔らかいと頭は柔軟でくつろいでいます。手の力を抜く事が体の使い方の第一歩です。
合掌は手に意識が集まり、手が弛み、左右の手の感覚を統一します。両手が統一されると自律神経が調和し心臓の働きが整ってきます。この呼吸をしていると、丹田に自然集中が起こり「上虚下実」の自然体になり心身の統一が図れます。
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