もとはこちら(平井先生)

性欲について

(2004/7/1 和気愛会第64号掲載 平井謙次先生講和)

 前号に掲載されました『欲望の本性について』という私の拙文に対し、読者より、特に『性欲について』どのように捉え、どのように処すればいいのか、もっと詳しく書いてほしいとの声を頂きました。それで今回は性欲ということについて、私の主観を述べさせて頂く事にいたします。

 さて、歴史上の人物を振り返ると、たとえば空海(弘法大師)にしても、また親鸞上人にしても、この性欲ということについては、随分と悩んだように記されています。世に聖人君子と言われるお方や、大事業に成功したと言われている人、また名を残したような偉大な政治家達も同様です。

 先月号でも書きましたが、性欲は宇宙に気を放出する本能であり、食欲と睡眠欲は、外から受け入れる本能です。放出するエネルギーを人間の場合は、地位や財産あるいは名誉などの経済活動に置き換えて表現しているように思います。

 ところでこれは私の考えですが、いわゆる性欲の強い人とはどういう人かと言うと、例えば英雄の代名詞のように言われている、あのナポレオン。一言で言えば、『英雄 色を好む』ということです。

 もう少し噛み砕いて言えば、世に英雄と言われるような人は、大体において食べる事や眠る事については淡白であり、一方無限とも思われる程の大きなエネルギーを、人世のために放出した人ではないかと思います。性欲というと解釈が偏りがちですが、私の考えを述べましょう。自分自身は非常に質素な生活をしながら、他の人に対しては、してもらう事よりも、して差し上げる事の方が多く、それが楽しくて快適だという人を英雄と言い、性エネルギーを正しく使っている人だと私は思うのです。

 人間には、動物としての性エネルギーと、人間としての性エネルギーがあります。一般の動物には、もちろん人間としての性エネルギーはありません。動物はただ子孫を繋いでいくという基本的な欲望があるだけで、眠りや食欲と同じレベルでの性エネルギーです。一般の動物と人間の大きな違いは、欲望を満たした時の快感の度合いの違いにあると思われます。動物は、食にしろ性にしろ、それに溺れて一生を台無しにしてしまうというような事は、まず起きないと思いますが、しかし人間の場合は大きな快感が得られるため、これらの欲望の満たし方には十分に気を付ける必要があるわけです。人間は、どんなに満腹であっても『好きな物なら別腹』等と言って、もっと食べたり致します。そうしてこれが昂じてくれば、心や体に異変が起こります。これは神からの警鐘であり、いくら快い事であっても、長期に亘ってそれを続ければ、偏りがおき病気になるという事を教えてくれているわけです。生活態度を変えなさいと、教えてくれているのです。

 さてこの性欲について、インドのヨガ関係の本等を紐解いてみると、房中術と言って、陰と陽、すなわち女と男の性行為によって三昧境を体験し、それで見性(万物同根同一体・大宇宙即是自分と分る事)したというような事を書いている物があります。人間として、各人が持っている悦べる能力を遥かに超えた悦びを獲得でき、そしてそれを獲得した人は、性への執着を放れ、解脱を得ると書かれています。しかしこれは非常に難しい事です。なぜなら、大方の人の『悦びの範囲』というのは、極狭いものです。肉体の耳に例えて言えば、下の音は20Hz以下であれば、いかに聞こうとしても、肉体の耳では先ず聞き取る事はできません。また上の音も2万Hz以上を限度に、それ以上は聞き取る事は出来ません。わずかに感じ取れるという程度です。以前私は大阪音響(スピーカーのメーカー)を訪ね、そこの無反響の部屋で、単振動の音というものを聞かせてもらったことがあります。2万Hzを超えた音となると何か恐怖を感じ、ギブアップしてしまいました。人の耳では聞き取る事が出来なくても、現実には3万Hzの音も4万Hzの音もあります。その様に考えていきますと、人間の耳に聞こえる音等というものは、音全体の中のほんの僅かなものだけに過ぎないという事です。殆どの音は聞こえないと言っても過言ではないでしょう。また目で見える範囲にしても、人間は赤外線、紫外線の中の物だけしか見えません。本当はもっと広い範囲の光があり、目には見えないけれども、実在している物が沢山あるはずです。それと同じで、多少の個人差があるにしても、普通一般の人が感じる快さと不快さについても、その味わえる範囲内のものは、ほんの僅かなものに過ぎないと思うのです。

 しかしながら、その不快感である苦しみを重ねていき、更にその苦しむ事をもっともっと重ねていくと、肉体では考えられない五感を超えた世界に到達することができます。例えば私はよく断食をしましたが、腹が減っても食べないということを継続していきますと、苦痛の塊のようになってきます。そうなると、もうこれ以上の苦痛は避けようというセンサーが働きます。しかしそれでも尚断食を続けていくと、筆舌に尽くし難い苦しみに見舞われます。それでもまだまだ断食を続けていくと、ある時点で、肉体的・心理的・霊的に快い世界に到ります。柔道などでも技を決められ、尚締め付けられていると、自分の苦しめる能力の限界を超え、死の淵へ行く前に同じような状態になると言われています。私の場合も後生なもので、断食を重ね、<苦しむ事を楽しむとはどういう事か>を身をもって体験したわけです。食べる事も眠る事も、体験しました。

 ところで性欲というものは、よほどの間違った性行動で無い限り、その快さもホンの浅い、痒いところを掻いて快いという程度の人が殆どですが、ともかくそれを深追いして行って、身を落とすような事になるわけです。しかし使い様によっては、最後は五感に触れない世界に到達する事も出来るのです。楽しみと苦しみの極地が一体化し、眠っているのでもなく、起きているのでもない、また、生きているのでもなく、死んでいるのでもない、そういう状態になるのです。

 昔から見性したと言われる人は、殆ど苦しみを極めて行って見性したのですが、楽しみの方からも極めていけます。極めてもまだ上があり、それをも超えてまだ上があり、それをもっともっと超えて上がって行くと、無限解脱という所へ行きます。三途の川があると言われていますが、その川をあっちこっちと、自由に行き来します。その中で、苦しみから来た世界と、悦びから来た世界が同じである事を知り、自分は宇宙の中心人物であると分るのです。但しこの性欲は愛憎の念を裏に持っての欲望であるため、ひとつ間違うと、殺し合うというような危険性を内蔵しています。しかし男女がひとつになり、プラスでもなく、マイナスでもない世界に到達するということは、非常に哲学的あるいは芸術的なものを感じさせられます。

 若い僧が朝4時に起き、作務をするのは、一般的に言って苦しい事です。日常生活の中の苦しい方から登り、反面楽しい方、快さをもどんどん求め、それらを超えたところに悟りの世界があるのです。男女のいわゆる房中術、それは日本であれば一夫一妻が基本であり、他の制度を持つ国もありますが、その時代その国のルールに従うという事です。昔インドで、道場で強烈な音楽をかけ、何十人もの男女がその音楽にのってトランス状態になり、恍惚状態で交わるという教団がありましたが、インドから追放されてアメリカへ行き、そこでもまた追放されてインドへ戻り、そこで若くしてその教祖は遷化したそうです。

 皆さんも苦しみを超え、悦びをも超えた世界を一度命がけで追求されては如何でしょうか。もしも今までに合一体とか法悦、あるいは三昧というような事を体験した人であれば、必ずできると思います。空海も男女間の事から海辺の洞窟で座禅をし、遥か彼方の空と海の姿から自由解脱を得、自らを空海と名づけ、生涯、大宗教家として活躍したそうです。尚彼の遺した言葉の中に『妙適清浄』というのがありますが、これは男女を超え、生死を越え、悦びも苦しみも超えた世界の事だと書かれています。

 このように、性欲というものも使い方ひとつで、本当に素晴らしいものになるわけです。皆さんもそういう世界を摸索する生涯であってほしいと願うばかりです。一生やニ生では、なかなか解決しないかも知れないし、僅か10分で悟るかも知れませんが、まず今生においては、十善戒の中の、

《不邪淫》(間違った淫欲)という事を徹底実習してほしいものだと思います。苦しみも悦びも、それらの全てを味わい尽くし、その上でそれらの全てを超えた世界を探求してほしいのです。

 無始よりこの方、あなたが通って来た過去の道も、そうして今この瞬間に通っているこの道も、そして尚今から通るであろう未来の道も、全ては無数にある様々な道の中から、あなた自身が自分の全責任で、自分自身で選び決めた道にほかなりません。これからどの道を通るか、それはあなた次第という事です。地獄にも、また極楽にも通じる道ですが、希望を持ち、はっきりとした目的を持って、あまりキョロキョロせずに天下の大道をまっすぐに進み、悔いの無い人生を歩んでほしいものです。そして、来世は人間界ではなく、せめて菩薩界への足がかりとなるものを見つけてほしいのです。辛苦を乗り越え、喜楽をも乗り越え、上り詰めて詰めきったところに、本当の平安があるのです。辛苦即是喜楽です。色即是空です。

 今日をいかに生きるかによって、明日の道が決まります。どんなに生きても、道が無くなるということはありませんから、心配する事はありません。神仏は、過去いかに生きたか、そして今どう生きているかによって、それに一番ふさわしい明日の道を用意してくれるのですから、誠に有難い限りです。本当にありがたくって、すまないことです。私も今年で70歳になりますが、男女の性行為というものを超えて、相手との一体境を摸索する日々でありたいと思っております。      (終)

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