自分らしく生きる生き方そのものが人を健康にする

NVY-intro39

ナチュラル ヴォイス ヨガ入門 39

 和気愛会 2017年5月号 (No.212)


NVYナチュラル ヴォイス ヨガ 入門-39 補と瀉(ほ と しゃ)


 私がヨガを求め続けたり東洋医学に関心を持ったりというきっかけをくださったのは沖ヨガの先輩、門田稔先生です。

 ヨガの第一のきっかけは、インド人のエスディアンの著書「ヨガの心身健康法」(白揚社刊)を本屋で見つけたことです。それは音大に入学した21歳(1968年)の時で、それまでやっていた西式健康法やこんにゃく体操などと並行してヨガの独習を始めました。そして23歳の時に同じ本屋で沖先生の著書「ヨガによる健康の秘訣」と「ヨガによる病気の治し方」(どちらも白揚社刊)に出会い、その内容に衝撃を受けたのが第二のヨガとの出会いです。

 当時は兵庫県の西宮市に住んでいたのですが、「ヨガによる病気の治し方」の巻末に記載されていた、「三島のヨガ心身鍛錬修道場 西宮支部 門田稔」の住所が私の住まいから2kmも離れていないところだったのです。後に「もん治療院」という鍼灸治療院を開かれましたが、当時は菓子問屋を営みながら、東洋医学の勉強をされていました。電話番号が書いてなかったので直接その住所のお宅を訪ねたところ、先生はとても気さくな方で、親子ほど歳の違う初対面の私に色々なお話をしてくださり、その日の結論として「お前のような理屈ばっかり言う奴は道場で体験してくる以外わかりようがないな」と言われ、その場で道場に行くことを決めました。

 道場に通うようになり、先生のお宅にもよく入り浸り、ヨガ、東洋医学、日本の色々な宗教など色々なことについて教えていただきました。結婚して一人目の子どもが生まれた28歳の頃には妻や子供の健康管理まで面倒を見ていただき、食事中に赤ん坊がむずかると、机の上の爪楊枝を何十本も束にして先を揃え、その揃えた面で、小さな足の裏を軽くトントンと叩くように刺激をし、あっという間に上機嫌に戻すというようなことをよくやって下さいました。

 東洋医学については「鍼灸は根本的な考え方の違いで同じ経絡や経穴を使ってもその使い方が全く変わるのだ」ということ、そしてご自分は「“経絡治療”という本来の古典鍼灸の理論と方法でやっていると」いうことでした。そして「治療には“本治法”と“標治法”があり、標治法は表れた症状を相手に治療するが、本治法はその原因にさかのぼって治療する。そして、根本は本治法であり、本治法は“補法”で行うのが本道であり、“瀉法”は最小限にとどめるのだ」ということも言われていました。「瀉」は「体の外に流し出す」ということ、「補」は文字通り「おぎなう」ということです。 その頃に読みなさいと紹介された「経絡治療講話」(本間祥白著 医道の日本社刊)は、今も疑問のあるときには時々引っ張り出す参考書です。

 私は東洋医学も西洋医学も素人ですが、生命の表れ方とその処し方を見ていくとき、門田先生に教えていただいたこのことがとても大切なことと実感します。

 一つの生命が100のエネルギーを持っているとし、それを色々な機能に配分して生きているとすれば、いくら病気をしていても生きている限りその総和の100が変わることは決してない。そして生命はいつもその配分のバランスを取ろうとしていて、それがうまくいっている時が健康で気持ちのよい状態だ。しかし、生活や環境の状態からその配分が変化したときには元に戻そうとする働きが生まれる。その過不足のあり方によっては偏った中でも全体として少しでも落ち着いたバランスになろうとして新たなバランス状態を生み出す。しかし、本来のバランスに戻ろうとする働きが症状として現れる。

 例えば、五行という観点でのエネルギーバランスとして観るなら、全体の100の総量が変わらないが、「相生」や「相克」の働きでその五つの働きの新たなバランスを生み出している。 バランスが壊れるというのは死を意味することだから、そうならないように次善の策(次善のバランス)を取り、そこから元に戻ろうとしているのがいわゆる病気の状態で、病気とまでも行かなくても“調子がもう一つ”というのも同じことだ。そして、本来は自然にまかせて元のバランスに戻るべきものだけれど、戻りやすいように人の手を貸すことが治療であり、出過ぎたところを人為的に取り去る「瀉法」と足らないところを補う「補法」という手法があるが、大切なのは補法であるというのです。

 全く別な観点での例です。活動的な人は大きなエネルギーを持っているように見え、行動的でなく鬱々と生きている人はエネルギーが少なく見えます。しかし後者の人は外から見れば静かな感じでも、自分の中では台風のように渦巻く心の葛藤の嵐が吹き荒れているかもしれません。必ずどこかに生きるというエネルギーをつぎ込んでいて、総和は変わるものではないということです。

 次の例はどうでしょう。
 完全な人はいませんし、その上に生活が不自然になれば体にも心にも色々なトラブルが現れとても雑多な問題が生じます。例えば慢性的食べ過ぎで肥りすぎて体に問題が起きている人ならまずは食事を減らすことが必要でしょう。しかし、多分その人は食べ過ぎていることを知っているし、それが原因になっていることも承知をしていることでしょう。でも減らせない。多くの人が分かっていながら食べすぎたり甘いものが過剰になったりしているのです。分かっているのになぜ減らせないのか。この例のように食事を減らしたり脂肪を減らせたりと、出過ぎたところをなくそうというのは瀉法と似た考え方です。しかし、食べて満足しようとする行動を生み出すエネルギーはどこから出てくるのか、総量は100しかないのにどこかに力が多く出ている。それはどこかの働きが足らなくなることで。そのバランスをとるために別のところのエネルギーが増えていると考えることが必要なのではないでしょうか。

 そうです、何か不満のある人が過食に陥りやすいということは多くの方の認めるところです。足らないところがあるからこそ増え過ぎるところが生まれる。そのバランスを正したければ、足らないところを補う補法が必要なのです。

 自分にとって足らないもの、それはお金でしょうか、それとも友達や温かい人間関係でしょうか、それとも夢でしょうか、認められることや称賛でしょうか。いや、その不足は決して金や物ではなく、また人が与えることのできるものではないことでしょう。もしそう見えたとしても、例えば愛に飢えたことが過食の原因に見えたとしても、それはうわべのことであって本質的には、自分の持っているエネルギーの配分の問題なのです。ひょっとしたら、愛に見えるものを欲しがるばかりで、与えるというエネルギー配分が足らないのかもしれません。

 沖先生は出して出して出し尽くせと言われました。たしかに、自分のエネルギーは人からもらえるものではなく、自分で出すしかないものです。出すからこそそこにエネルギーが補充されるのです。出せば出すほど出てくるのです。すべてに出し切ることが出来るならその過不足など問題にならないでしょう。しかし多くの人にとって出し切るという作業は肉体的にも精神的にもそして物質的にも目標にすべき最大の課題ですが、急にはできないことです。 根本的ではなくても、誰もが取り組める別な観点からのアプローチが必要に思えます。

 例えばこんなこともあります。腰とお尻の力の入り方のバランスがあって、腰の硬い側のお尻の力が抜け、腰の柔らかい側のお尻に力が入っているのです。たまには例外もありますがほとんどの方は、左右の腰とお尻の力を足すといつも100なのです。多くの人の身体を観てきてそう確信するようになったのですが、きっと体中でそのような事例を見つけることが出来ることでしょう。 身体の力も、思いの力のも、足して100になるものを配分して生きているということでしょう。

 ただ、余っているものを減らしさえすれば良いのであれば随分と簡単です。あふれ出ている処とか凝っている処とかは目立ってわかりやすいので手をつけやすいのです。しかしそこが違うらしい。反対に足らないところを補う方が安全確実、うまくいくのです。でも足らないところは目立たなないので、簡単には見つからないかもしれません。自分に足らないものは何だろうといつも自分を見つめ続ける必要があることでしょう。

 声を出すときに、胸や喉に力の入る人に「上虚下実が大切だ、余分な力を抜け」と言いますが、簡単にはできません。動作の中でどこかの力を抜くということはとても難しいのです。それよりも、なぜ胸や喉に力が入るのかということの方を考えるべきなのです。必要なところの力が抜けることで胸や喉に力が入っている。その足らないところを補うといつの間にか不要な力は抜ける。要は、背骨や足腰に力のこもる姿勢が当たり前にできるようになれば、胸の力はかってに抜けるのです。

 沖先生は出し切ることや強化法という手法でそれを実現しようとされていました。たしかに道場では強化法を含めた生活全体でいつの間にか病気が治っていたとか、心が解放されていたという人が多くいたと思います。しかし今考えてみると、これは多くの人にとって沖先生に導かれて出来た要素が大きく、自分だけでそれを再現しようと実行したときには足らないところが沢山あったようです。かく言う私も、出し切るとか結果を求めないとか、物事の良い面を見るなどという心の方向性についてはある程度ではあるけれど、それなりに自分を変革してきたけれど、身体の使い方では、沖先生の言われることをいつも意識していたつもりでも、そこに求める最終的イメージが足らなかったためでしょう、体の歪みがいつのまにか消えてしまうような呼吸を身につけるところまでは全く至りませんでした。結果、今でも足首は倒れ、胸椎が歪み、顔が前に出る…というような体の使い方の癖、変えていくべき課題は山積みです。とはいうものの、長く色々なことをやったおかげで、今は自分の行くべき方向性のイメージがあり、それに従って体の使い方を毎日毎日色々な場面で意識し、少しずつですが歪みから解放されつつあります。寄り道ばかりしているので効率が悪く遅々とした歩みですが、少しずつ確実に心も体も自分の意図している方向に変化していると感じます。そしてそれがいくら遅くともなんとかうまくいっているのは、出過ぎたところを力で頑張ってもぎ取ったり抑えたりするのではなく、足らないところを“補う”という考え方でやってきたおかげと思います。

 補と瀉という考え方を他のところに応用することが可能というお話をしましたが、本家本元の身体や経絡の五行での捉え方を一覧表にした色体表というものが「経絡治療講話」の中にあったので、最後に紹介しておきます。参考にしてください。経治講五臓色体表-2




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