自分らしく生きる生き方そのものが人を健康にする

NVY-intro38

ナチュラル ヴォイス ヨガ入門 38

 和気愛会 2017年4月号 (No.211)

今回は、視覚障害者のための音訳をされているボランティアグループのためのセミナーのテキストの一部を紹介します。ナチュラル ヴォイス ヨガが初めての方たちのために書いたものです。
(音訳は朗読に似ているけれど、目的も声に対する考え方も別なものです。)

声を使っての表現は体や呼吸の状態がリアルタイムにそのまま声に反映しています。
また、世の中には色々な声があります。子供・大人・老人、女・男、元気な人・病人、落ち着いた人・気の焦った人、みなそれぞれにその人の状態を声に表しています。そしてその人の状態、即ち気分を聞く人に伝えているのです。

当然ですが、聞く人にとってはどんな声でもいいわけではありません。どのような場面にあっても気分の良くなる声を聞いていたいのです。それは声を出す人が気分の良い状態でなければならないということです。気分というのはその人の心や体の状態そのものなのだからです。

ナチュラル ヴォイス ヨガでは声に表れている心や体の状態をバロメーターとして、呼吸や体の使い方を自然で気分の良いように変え、結果としてより良い望ましい声に変ることを目指しています。

声はテクニックだけでもある程度は音色を明るくしたりソフトにしたり変化させることが出来ます。しかし、その声の元になる呼吸の状態を変化させない限り、声の音色の根本は変化しません。なぜかというと、聞く人は、話したり歌ったりする人の呼吸を聞いているからです。声は呼吸そのもの、呼吸のエネルギーを音に変えたものだからです。

元気な体からは元気な声が出るのですから、元気な声にしたいと思ったら元気になるしかありません。優しい声にしたいと思ったら優しくなるしかないのです。声のうわべだけで優しそうにしてもそれは猫なで声、気持ちが悪く、いい人間関係を築くことのできない偽の声ですし、いかにも元気そうに声を張り上げてみてもカラ元気なら、それはうるさいだけで人の心を豊かにはしません。

ラジオ時代は違っていたかもしれませんが、テレビでは顔や服が重視されていて、画面を見ないで聞いていると、うるさい声ばかりがはびこっているような感じです。真実の人間関係を求める人たちが減ってきているのでしょうか、豊かな声を求める土壌が減ってきているように思います。

声を変えることは難しいことと思われています。しかしそれは手短に簡単にうわべだけで変えようとするから難しいのです。うわべをいくらひっかいても、それをいくら一生懸命やっても自分をこれっぽっちも変化させることはできません。それよりも自分の生命からの要求やエネルギーを声として表現するような努力をすれば、それは結果として努力しただけ、自分の心と体を変化させ、他との関係性が変わり、自分自身の健康度も変えているのです。

 根本から、生命の要求に従って変えることを考えなければこのような変わり方はできません。そしてヨガはそのような変化を私たちに求めているのです。

 私たちは心と体を使って生きています。そして、身体を健康にしたいと思っても自由にはならない。心が元気にしていたいと思っても、体がついてこないと心もなかなか自分の思うようにはならない。でも心も体も自分の生命を謳歌するための道具ですから、使いこなせばいいのです。というよりも使いこなさなければならないのです。それしか道はないのです。

いくら心が一生懸命に元気でいたいと思っても、もうだめとか、嫌だとか、もう歳だから、どうせ○○だから、と一方では反対の方に心を引っ張っている。誰もが元気に生きたいと思っているのになぜ反対に引っ張られるのか、それは心や頭脳の問題でもありますが、それ以上に身体の問題なのです。体の使い方の癖が呼吸を引っ張り、呼吸が心を引っ張るからなのです。

誰でも元気のない時には胸を落として呼吸をしています。ですから反対に胸が下がった状態の身体や呼吸の癖が身につくと、いくら心が元気を出したいと思っても出てこれなくなっているのです。 もちろんこれだけではありませんが、色々な障害が自分の中にあり、自分の人生を面白くて楽しくて仕方ないというようになれなくなっているのです。

 身体の状態を作っているのは生活ですから、生活の一つ一つの行為が身体の本来の働きにちゃんと協力していれば体は元気にしていられ、心を引っ張ることはずっと少なくなるでしょう。ヨガは、そこのところを正しく把握して、合理的に正しい生活の方法や体や心の使い方や、その他自分に適したやりかたを見つける方法を教えているのです。

ということで、まずは元気なときの体の使い方を思い出し、それを自分に課して体の使い方筋肉の状態としてそれを体に覚えさせてしまうのです。但し、それは決してアスリートの身体の使い方をまねて筋トレをすることではありません。ただ生まれながらに与えられている、喜んで楽しんで生きる呼吸を妨げない伸び伸びとした体の使い方を思い出して自分の標準にしてしまうのです。
 
 重力に逆らってスックと伸び、それに対して安心してどっしりと体の重さを地球の重心に任せ、そして動きに伴って硬くも柔らかくも自在に変わる体の中の状態のフレキシブルな柔軟性を保つ。そのためにはいつでも次の行動に移れることのできる和らいだ体の状態、心の状態を求めるのです。

 このような捉え方ができるようになり、それを実践に移して、少しずつでも豊かな心で生きていられるようになったきっかけは沖先生のお話し、その迫力、その生き方、そして沖ヨガ  道場での修行経験でした。今回も、懐かしく思い出される道場での体験を紹介します。

 前回書いた破天荒な冥想の指導もそうですが、常識を覆す沖先生のやり方は、今はなるほどと思いますが、そのときは 本当にびっくり仰天ということばかりでした。

  最初は厳しくて耐えられないと感じた道場生活も回を重ねるうちに身体も心も適応力がついて、随分居心地の良くなってきていたある時の冥想行法の時間、このときも円座になり ローソクを囲んでそのゆらめく炎に集中していました。

 すると、「右か左か!」と大きな沖先生の声が聞こえました。何をしているのだろうと、炎への集中を忘れて先生の挙動に意識を向けましたが、先生の姿は見えません。そしてその受講生が「左!」と答えた途端、バシッと竹刀で叩く音がしました。 さあ、きっと肩のあたりに警策のような一撃をくれたのでしょう。

 「え~っ、また竹刀でビシバシだよ」と思いながら次の人の姿は見ることが出来ました。

「右か左か」と言いながら、竹刀の切先が、座っている受講生の肩の辺りにスーッと静かに降りていきます。先生は後ろに立っていますから、その人に竹刀の切先は見えません。「右ッ」という声に先生は「ヨシッ」と応え、また次の人に竹刀を降ろしていきます。

 これはえらいことになった、当てものなら五分五分の世界です。 当たらなければバシッが待っている。よし、何が何でも当ててやるぞと、もう一度ひたすらローソクの炎に意識を向け、呼吸を調え、私の番を待ちました。結構ビシバシと叩かれる音がしていましたが、とうとう沖先生が私の後ろに立ったので、すぐに竹刀を降ろしてくるだろうと息を止めて待つことしばし。

とても長い時間に感じられましたが、真後ろで「右か左か」と声がしました。目を開いたまま後ろの情景を見るように強く意識を向けると、右の耳から肩のあたりに何かを感じました。すかさず「右ッ」と叫ぶようにいうと、「ヨシッ」と返ってきました。

 ああよかった、姿勢を崩さず表情も崩さずただそのままホッとしたことを憶えています。集中力を高めよとか、感知力を高めよと言われていることそのままの訓練でした。見えないものをただ感じることができたのか、それともわずかな空気の動きを感じ取ったのか、それともそれを見ている他の人の意識を感じ取ったのか、よくわからないところもありますが、はっきり「右」と断言できる感覚がありました。

その世界を特には追及してはいませんが、以来、後ろの気配を感じることが多くなったのは事実で、見えない世界の方が見える世界よりもずっとずっとたくさんあってその中で生かされている自分なのだろう、と思うようになりました。



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