自分らしく生きる生き方そのものが人を健康にする

NVY-intro37

ナチュラル ヴォイス ヨガ入門 37

 和気愛会 2017年3月号 (No.210)

 十数年発行している会報には毎号、「自分らしい生き方が人を健康にする」という標語を入れています。

 この言葉の中には、健康法も調心法も含めたすべての生き方の秘訣が含まれていると私は考えています。

 健康であればいい生き方ができると思っている人がきっと多いでしょうが、しかし、その思いだけではきっといい生き方へは近づけないだろうし、手段の一つと思っている健康すら掌から零れ落ちるという可能性が大きいことでしょう。

 いい生き方に近づくためには、その元になる、もっと自分の本質に迫る考え方と行動が必要なのではないでしょうか。

 その本質に迫る生き方の一面が「自分らしく生きる」という言葉で表現できる。即ち、自分が一番喜ぶことが出来、自分が他の役に立ち得て生きがいを感じることのできる、自分らしく理に適った生活法を、身につけるということ。

誰もが生命という深遠な宇宙の営みに生かされていて、それを「自分の生」として表現して生きるとき、自分らしい生き方と感じることが出来るということだと思います。

 50年間、ヨガとは何だろうと常に考え、何千年も前から残され伝えられてきている生き方への示唆をいつも参考にしながら手探りで生きている。

 沖先生からは取り入れたら出せと言われ、損得勘定が先に立ってあまり物を思わなかった頭に鞭打って“思いのまんま”を毎月書くなどという涙ぐましい努力をして何を得られたのか?

 何であれ一生懸命やってはきたのだから、自分の身についたことがたくさんあるにちがいない。 そうは思ってもそれが何なのか、何を得られたのかと考えてみると、それは実に曖昧で “これ!” とは言えない形のないものだ。でもきっとそれが元気の素になり、気持ちよく生きれていることの原動力になっているのだろうと思う。

 70歳になり、周りでは元気が無くなったり身体のトラブルを抱える人がどんどん増えてくる中で、今のところ毎日がさほど問題なく、常に目的を失わずに生きれていられるのは、少しずつの気付きの集積のお蔭にちがいない。まあ、それが明日崩れるかもしれないし、ただただ偶然に運よく生きれてきただけなのかもしれない。

 少年期は体が弱く病気ばかりしていたのに、様々なボディワークに出逢い、ヨガや多くの宗教の教えに接し、生活法や考え方が変わるにつれて、健康度が増してきた。

 生きることは悩みであるということは、誰にとっても同じことだろうけれど、その中にいつも進むべき指針が与えられ、その先はいつまでも遠いけれど、いつもそれが見えているということはとても心強い。
 その指針は北極星のように進んでも進んでも、いつもその方向に消えることなく輝き続けている。

 自分らしく生きる生き方とは、一人一人違うとか、共通点が多いとかそんな話ではなく、自分に即した生き方をするということだ。

自分の痛さは自分だけのもの、“その痛い場所はどこにあるのでしょう” と他人に訊いても分からない。 それと同じように、自分の生き方、生きるべき道についても誰に訊いても教えてもらえるものではない。

 そしてその自分とはと問う本体も問う相手も自分の生命なのだ。 何をしたいのかという具体的な内容は頭が考えてくれるだろうが、その思いのエネルギーの本質は生命にある。

 その生命が向かおうとする方向性に私たちは支配されているはずなのに、そこから外れることもできる。

 一人ひとり顔が違い、性格が違い、生きてきた経験が違うのだから、自分らしいということは一人ひとり大きく違う。 しかし、その違いの元のところは共通性があり、ベースは同じなのだ。顔つきが違っても肌の色が違っても、この世に生れ出てきたということは大きな共通性の中から出てきたということで、言葉を変えれば生命には共通の原則があるということだ。

 全生命にとって“生きる”ということの原則は共通している。 だから、他の生き物の生き方も大きく参考にできる。

 まして人間同士であればほとんどが同じベースの上に成り立っているから、その共通性というところで話をすることが必要になる。

独自性を優先させても解決できないところがほとんどとと言ってもいいだろう。そして私は、その根本のところの”きっかけ”を沖先生からいただいた。他の方からも多くを学んだけれど、現在までその指針として自分の中で輝き続けているのは沖先生からいただいた示唆によるものだ。

 ということで今回は、去年の12月号に掲載した沖ヨガ道場での冥想行法の体験記の続きです。

 沖ヨガ道場に通うようになって1~2年経った頃のことです。 

 沖先生の指導は迫力があるので、受講生も研修生も皆がとても緊張して、ピーンと張り詰めた空気の中で円座になって座っていました。

頭で天を突け! 胸を突き出せ! 肛門を締めろ! などなど沖先生から檄を受け、なんとかその指示通りに姿勢を整えようと、結跏趺坐で一生懸命に座っていた時です、 

「そうだ、それでいいんだ!」

といわれたことがありました。その時の私の状態は、胸が高く広がっていて、普段の胸の状態とはずいぶん違いました。 そしてとても体が軽く、それまで自分が上虚下実、正しい姿勢と思っていた状態とも全く違い、普段とっていた冥想の姿勢ともかなり違いがありました。

 「へ~? これがいい姿勢? 軽くて気持ちがいい、でもこんなに楽でいいのかな?」などと、不思議マークが頭にいっぱいのまま座っていました。これは昭和46~47年頃の話で、およそ45年も前のことです。その時の姿勢の印象や沖先生の言葉は今も憶えていますが、その姿勢そのものの感覚はいつの間にか忘れてしまっていました。

 突然現在の話になりますが、最近、私がセミナーや教室で指導している内容、特に個人指導では、一般的なヨガ教室ではやらない、あまりヨガらしく見えないような内容が多くなっています。 中でも特に力を入れているのが《跳躍呼吸法》。

 この呼吸法をやりながら、肋骨が高く広がり吐く息に力がこもり、吸う息が楽に流れ込んでくるような状態を作っていき、そこで、声をバロメーターにしながら姿勢や呼吸を調えていきます。

 こんなやり方をしていると、ピタッと姿勢が納まるという体験をする人がときどき現れ、最近はその数が増えています。 その姿勢は、結果として3つのバンダができている状態なのです。背筋が伸び、頭頂が天を突き、お腹が締まり、肛門が締まり、肋骨が高く、首の力が抜け、胸骨の先端が顎を押し上げるような感じになっている。とても楽で気持ちよく、充実感のある姿勢です。

 力の入れ方や気の方向性などの色々なことを言葉で言ったり手を添えたりして直し、そして声の響きや出る方向などを調えていったときに、フッとその状態に入ることがあるのです。

「そうだ、それでいいんだ!」

と、その瞬間、口をついて “この言葉” が出てきます。上がる気と下がる気、締める働きと緩む働きのバランスのとれた状態、上虚下実、丹田に意識を置いている姿勢、勝手に肛門が締まり下腹が引けている状態が生まれているのです。 このときはバンダをしようなどとは思わないでも、いつの間にかそのような力がこもっているのです。

 大昔に沖先生が教えてくださった姿勢がこの姿勢だった。
 「それでいいんだ!」と自分が言ったときに、何十年も前の記憶がよみがえった。そうだったんだ、あの時に教えていただいたことがこれだったんだ。

 そして、そのままあの状態を素直に求めていればもっと早く進化できたかもしれない、などとも考えたけれど、それは 一瞬だけ、よく思い起こしてみれば、紆余曲折があったからこそ現在の私があるわけで、それを無駄な時間や行動ととらえる必要は全くない。その時それがそのまま体の悟りに繋がらなかったのはそれなりに意味のあることなのだと思いながらも、あのときのはてなマークのような感覚を懐かしく思い出している。

 そして面白いことに、長年求めてきた姿勢を自分で再現できるようになり、そしてそれを他の人も体験させることができた瞬間、何十年も前に沖先生に言われたのと同じ言葉が衝いて出るのです。
 「そうだ、それでいいんだ!」

 あの時沖先生が言ってくださったのはこのことだったのだ。と今はわかります。そのときはたまたまできただけ、でも意識的に再現するには、その頃はまだまだ自分のものにできていることが少なすぎたのです。そして人に伝えることが出来るようになるにはもっともっと沢山の時間が必要でした。

 冬の寒い日に、座っているだけなのに汗をかくほどの緊張をさせ、その中で安らぎを得る姿勢と呼吸を体得せよと言われていたのです。 得難い体験をさせていただき感謝に堪えない思いがあふれてきます。

 そして、自分が体得し、人にその姿勢を体験させることが出来るようになって初めて、あの時の沖先生の喜びを感じることが出来ます。
 生徒も同じことが出来たとき、体験できたとき、それが無上の幸せを感じる瞬間です。



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