自分らしく生きる生き方そのものが人を健康にする

NVY-intro24

ナチュラル ヴォイス ヨガ入門 24

   2016年1月号 (No.196)

「生きる」と「活きる」

私たちは毎日、疲れたら休む、エネルギー源が切れれば食べる、というような動物としての営みをしていますが、この営みそのものが私たちの生きる焦点ではありません。

野生の動物たちにとってもきっと、大きな自然に浸って生きることの一環としてその営みがあるのであって、それが焦点ではないことでしょう。そして、人間には人間でなければできないこと味わえないことがあるけれど、それは動物としての営みの上に成り立つものにちがいありません。

また、私たちの多くは、体を凝らしたからストレッチをする、毒を溜めこんだから汗をかいてデトックスをする、食べ過ぎたから絶食をする、というようにバランス回復をして、よりよく生きることができるよう努力をしています。もちろんこれは大切なことでしょう、しかしこれは生命本来の営みというより、生命の働きに逆らったために生じたことに対する対処法でしかありません。

生命本来の営みであろうが対処法であろうが、行き過ぎてはもとに戻る、足らないから補うというその場限りの 生活を行ったり来たりするだけの堂々巡りに追われて生きるなら、それはまるで借金を作っては返済に追われて暮らしているのと同じに見えます。

野生の動物たちが生命を謳歌していると見える私たちにとって、自分自身の生命は謳歌できていると映るでしょうか。

人間が生を謳歌するというのは野生動物のそれとは違うことでしょう。ただ健康であればいいわけではない。ただ金があればいいわけでもない。そこで求めているものは何だろう。人間は人間なりに生きることへのエネルギーの使い方があるはずなのに。 人間であればこそ本来向かっていきたいところがあるはずなのに、そこを私たちは見失っているのでしょう。

私たちの生活の根幹をなすはずの政治や裁判までもが巨大な欲の奔流に呑み込まれ、欲が欲を生み、欲のためには殺し合いも騙し合いもお構いなしの大きな渦になり、私たちの生活もその中で一緒に流れています。 そしてその要にお金がいます。

この社会システムの中では、なんでもお金に換算しますから、お金を稼がないわけにはいきません。ですが、それは 本来自分に必要なものとの交換のために稼ぐのであり、または、自分が他に対して役に立てたことと他の人が世の役に立てたことを公平に交換できる便利なシステムであったはずです。

 解釈は他にも色々できるでしょうが、誰でもそんなことはわかっているはず。 しかし、人の中でお金が独り歩きをし、お金がお金を生んだりお金そのものが価値を持ってしまった今、この扱い方、いや、お金に支配されている人にとっては、扱われ方で人生が変わってしまいます。たかだか人間の道具として作られたもののためにです。

実際、どれだけたくさんのお金を持っても、生命を生かすための食事は人並みにしか食べられないし、体を壊すくらいに食べてもせいぜいひとの数倍くらい、靴は2足履くことはできない、それでも欲しいしお金が欲しい。 もっと欲しいもっと欲しい、そしてなくなるからまた稼ぐ、なくならなくてももっと欲しい。 得ても得ても足らないという苦労ばかりの人生で、 生命を維持するだけのことならやっていられない、早々と切り上げた方が楽にちがいない。

 でも、なぜ、多くの人が血眼になるのでしょう、多くを得ることによって「生きること」の何が得られると思って一生懸命になるのでしょう。

余剰のお金は様々な感覚を喜ばせますが、命の喜びには一滴すら寄与することはできません。それでも欲しくなる。ほとんどの人はそれをおぼろげに知っている。けれど明確にはわからないから堂々巡りをする。わかればこの循環から抜け出し、別なものをもとめることでしょう。

 「生きる」ということと「生命を維持する」ということとは別のことであり、「生きる」というのは「活きる」であり、「活きる、活かす、活かされる」というように、〝より良く生きる〟 という意味を内包しています。

ここでは、生命を維持するという意味の生きるを「生きる」と書き、より良い生を求めて生きることを「活きる」と書くことにします。

「ただ生きながらえる」ことが目的ではなく、「活きる」ということを皆が求めているからこそ行動が生じ、その行動は「活きる」ということのために始まったはずなのに、なぜか、「生きる」ための道具として与えられた「感覚」の使い方を誤り、その 「感覚」の要求する快感そのものを得るために行動をしてしまっているのです。 ここが肝心です。

この「感覚」というものは、生きるために必要な要求が、食欲や性欲という形で私たちの意識にのぼってくるものですが、本来の焦点を失った形で、欲望だけが独立して、それを満たすように生きることがこの世の標準のようになっているという現実があります。

いや、世の標準ではなくて、物を売りたい人たちがあたかもそれが標準であるかのようなイメージをバラマいているという要素も多いことでしょう。

でもそれに乗せられた人にとっては、「活きたい」のに、「生きる」ために与えられている「感覚」の中で堂々巡りをし、「活きる」という歩みの前方を見れないでいます。

 実は、「活きたい」から、明るい前方の光を見たいからあがくのです。 与えられた生きるための欲望を、「活きる」ために使うのではなく、感覚そのものを喜ばせ、そこで空回りをしてオーバーヒートして、心を疲れさせ、体を壊しているのです。

痴呆やノイローゼもそのような空回りによる疲労と硬化によるものであることでしょう。 センサーや自動システムを構築したのはいいけれど、自分の中でそれが独り歩きし、「活きる」という作業のために働くという本来の使命を忘れてしまうという愚をやっているのです。

 ここをクリアすることが本質的な、「活きる」ということを実現する第一歩です。

健康であれ、金であれ、異性であれ、必要なものは必要、ほしい物は欲しい、しかしそれは手段であって目的ではなかったはずです。 得たい何かがあるからその手段として欲しいのです。 金や食べものへの欲、健康への渇望、性欲や名誉欲、みな同じことです。得ようとしているものは本来「生きる」ために必要なものであったのに、欲望だけが独り歩きをしているのです。

「生きる」ことから直接発していないそれらの欲望は本質的目的を持っていないからどうしても完結することはない。目的がはっきりしている欲ならそれが達成されればその欲も消える。

しかし、本質的な目的を持たない“欲のための欲”には行きつく先がない。 まるで賽の河原のように、ずっとひたすら繰り返すのです。

さてそこで少し観点を変えてみましょう。 「活きる」とは、生命が喜んで是認する行動をするということです。そのとき、体も心も呼吸も安定します。その安定を生命は求めているのに、頭や感覚はとんでもないところに行って間違ったものを拾い集めている。 活きるということが実現されたときには快感という形で私たちの生命がそれを肯定します。

言い換えれば、私たちが求めているのはその快感そのものであり、そしてその快感は本来あるべきところに落ち着き、安定するということです。そして、この快感は、生命が自分の体や心を使って自動システムを実行させるための「エサ」のようなものです。

もし食べてホッとするという快感がなかったら、もしセックスをしてああよかった、という快感がなかったら、きっと私がこの世に存在することはなかったことでしょう。

 ああ、生きていてよかった」と感じられるようなシステムそのものを受け継ぎ、後代に残すように、私たちはできているのだから、それを事実として受け入れ、「ああ、生きていてよかった」をどこままでも 追及し、「生きる」ということをより「活かす」生き方をするしかない。 それを究極まで追及するのがヨガなのです。

 エサだけを欲しがって、快感を得てもそれは本来の「生きる」ということに資することはまったくありません。多くの人にとって、物や金を得る作業、そして地位や異性を得るという作業がそのまま「活きる」という喜びを生みだすことにはならず、その求め方や活かし方を学ばない限り「活きる」ということにとっては何の益にもならないのです。

 ヨガはその初めからゴールまでを明確に表現しています。
「活きる」ということこそが生命の持つ至上の目的であり、そこを原点として最高の安定を手に入れる。そこにこそ人間としての最高の喜びがあり、それをサマージとかプラッサードと表現し、人間としての最高の状態だとヨガでは言っています。

さて、どこかでボタンをかけ違い、本来の循環の中で求めていたものでないものを追いかけまわす。猫が自分の尻尾につけられたネズミのおもちゃを追いかけて回り続けるような状態になぜ陥るのでしょう。 はたで見る分には滑稽ですが、まっただ中にいる当猫にはわけがわかりません。

 ど壺にはまるといいますが、そこに落ちた原因や意味をその中で考えても何も見つからないことでしょう。抜け出してみれば、自分がどんなところに落ちていたかがわかります。まずは抜け出すために一度オーバーヒートしている頭を冷ます必要があるのです。冷めれば頭が覚め、堂々巡りが見える。それではじめて自分の本来の場所に戻ることができ、そこから行くべきところに向かうのです。

なぜ欲望が独立して働くか? なぜ違う循環にはまってしまったのか? その理由を問うても解決しない。頭を覚まし、本来の生命の要求を感じ理解し、己の感覚や生活に照らしてみて初めて、自分の中で堂々巡りをしていたことに気づくことができます。そのためにこそ冥想をし、感じる生活にシフトすることが大切なのです。

 私たちが行動するとき、それが本来の生命の求めているところに直結するやりかたでなければ、無駄骨を折っているだけかもしれない。

多くの方がその愚をやっているからこそ生きることへの喜びを味わいつくせずにいるのではないでしょうか。ヨガで説くところはまさにこのところだと思います。自分の生きるすべてが、生命の喜びになるような生き方に変えていくのです。



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