自分らしく生きる生き方そのものが人を健康にする

NVY-intro15

ナチュラル ヴォイス ヨガ入門 15

   2015年4月号 (No.187)

気持ちの良い身体の使い方がある。魂の喜ぶ身体の使い方がある。

座禅をしようが、禊(みそぎ)をしようが、また、どんなに高尚なことを考えてそれを実行しても、どんなにお金を儲けても、身体の使い方が喜びとは反対の使い方、生き生きと反対の気の動かし方をしていれば、魂の喜びは得られない。

一時的な心の喜びが生じても、それはまるであぶくのような喜びだ。結局は、行動した本来の目的や意味(生命の喜び)は与えられない。
自分の心底に益する喜びは、日常の「嬉しい」の延長上にあるわけではない。どのような喜びもその源泉は自分の魂の奥底にあるのだからすべての喜びは認められるべきだ。しかしそれを引き出す要因こそが大切だ。

永続的な喜びをもたらすような求め方がヨガの説くところだ。その場限りの喜びはそれなりに喜べばいい、しかし、その喜びに頼ったり、それが喜びの本質と思ってはならない。

自らの力を高めて、喜べない心を排除し、自他が共に喜ぶような自らの喜ばせ方を身に付けることが大切なのだ。

心が喜び躍動するのをじゃましないだけの身体の柔軟性や躍動力があれば、それとも、心が身体を引っ張るだけの強さがあれば、心が身体に負けないで、喜ぶことができる、しかし、心だけ喜ぶとか、身体だけ喜ぶなどということはない。

一過性の喜びはそれだけのものでしかない。もともと、私たちの本質は喜びなのだ。ヨガはそのことを端的に表現している。

私たちのうちなる神をアートマンと呼び、その本質はサット(存在)、チット(意識)、アナンダ(至福)だという。この三つ、どれにも深く重要な意味があるだろう。どれもがうちなる神そのものだというのだ。

この三つが身体の奥深くで、心の奥深くで、感じることができるよう、人生のどうあるべきかをまず頭が理解し、そして心と体を和らげ、伸び伸びとした使い方を身につけ、日々冥想をして待つ。そうすれば、このすぐ隣にある世界はだれにも明らかにされることだろう。

この記事は関西連合会の3月のセミナーのレジュメに書いたものです。

このように体を捉え、心を捉え、呼吸や声をフルに活用してより良い生き方を求めようという提案をしていますが、この捉え方こそがハタヨガの取り組み方であると私は思っています。

ハタヨガというと強いポーズが主流のヨガを指しているように思われがちですが、アイアンガー師が「肉体は宮」と言っておられたように、体の使い方が、呼吸の使い方や心の使い方と同じ次元のものであり、そのどれもが魂を感じ、そして魂を表現して生きるための道具であるということを自らの肉体を使って実現していくのがハタヨガであると思います。

佐保田鶴治さんがヨガ・スートラとハタ・ヨガ・プラディーピカを訳して、1冊にまとめて『ヨーガ根本経典』という本にしておられ、その中の「ヨーガ思想入門編」で、

A.ヨガ・スートラでは、
 一 禁戒
 二 勧戒
 三 坐法
 四 調気
 五 制感
 六 凝念
 七 静慮
 八 三昧

B.ハタ・ヨガ・プラディーピカでは、
 一 禁戒
 二 勧戒
 三 坐法
 四 浄化操作
 五 クンバカ
 六 ムドラー
 七 三昧

という組織になっていると書かれています。

AもBも一、二、三までは同じですが、その後はだいぶ違いがあります。組織立ての違うものに、きっちりと線を引くことはできませんが、

B.の「クムバカ」がA.の「 調気、制感、凝念」に対応し、「ムドラー」がA.の「制感、凝念、静慮」に対応していると考えられます。

ハタヨガとラジャヨガの違いは山頂に上る道筋の違いのようなものであり、優劣は全くないと考えます。体と呼吸の使い方から制感(プラティヤハラ)、 凝念(ダラーナ)、 静慮(ディアーナ)、の状態を生みだし、どちらの筋道を通ってもサマージに到ることを実現していこうということでしょう。

気のコントロールというのは心・体・呼吸をまとめてコントロールすることであり、また、五のクムバカ(クムバク)は単に息を止める操作だけではなく、私が「クムバクりょく(力)」と呼んでいる働きを高度に洗練して動作に生かすということがこの語に含まれていることでしょう。

このB.のハタヨガの組み立ては若い頃からから気になっていた個所ですが、最近はますますこのように確信を深めています。

もう一つ、古典にふれたのでその読み方についても少し考えてみたいのですが、ヨガ・スートラにせよ、ハタ・ヨガ・プラディーピカにせよ、常識的に見れば考えられないような、例えば、ある呼吸法を続けると体が浮揚する、というような記述があります。

これはひょっとすると、「体が浮いているように軽く感じる」ということを意味しているのかもしれません。長年伝わるうちに言葉が強調されたり、また、国民性の違いによる表現の違いであったり、また、色々な国の言葉に訳される時、訳す人の解釈によりどのようにも変化しうるものだと思います。

ですから、よしんば原典を読むことができたとしても、その言葉の生まれた意味を深く洞察することが一番大切なことになると思います。

実際、私は若い時によく聖書を読んでいましたが、沖先生の教えを受け、その教えを実践するようになってから読みなおしてみると、イエス様はこう言いたかったのだということが、いくつかの場所でわかりました。

人の手を経て様々に変化していたとしても、なおそこにある真実を感じることができます。それは体験してみて初めてわかることなのでしょう。読むだけでは100回読んでも分からないことが、一度の体験を通じて分かるということが多々あります。字面を追いかけるのではなく、その字の裏にある意味、字間を感じ取れるようになる実践生活が大切だと思います。

画像の説明



さてそれでは今回のナチュラル ヴォイス ヨガは、
「肩を下げる」ということについて実践してみます。

図は沖先生の著書『生命力強化法』の中に書かれている
「上虚下実・頭寒足熱の自然体」として体の使い方、感じ方の方向を示した図の一部です。

この意識の方向は山のポーズ(ターダアサナ)そのものであり、色々な動きの基本になる体の使い方の方向です。頭頂が天に向かって伸び、足裏が地面を押すというのはこの紙面でもよくお話ししている方向の矢印です。

普段、自分の体の使い方を意識している人であれば、なるほどと納得できることでしょう。この図だけでは片手落ちなので、後ろや横から見た図も見ていただけるよう、ページ全体のコピーを別紙で添付しておきます。

但し、これらの矢印の感じ方を足してまとめると自然体になれるというわけではなく、自然体を実現できている時はこのような使い方になっていますよ、ということです。

肩のあたりから始まる下向きの波線は、力を抜いて自然に肩を下げるということです。その横に肩を横に拡げる矢印が書かれていますが、今回はこの感じ方をつかんでみましょう。

時代劇で武士が姿勢を正して座る場面がよく出てきます。そんな感じですが、少し丁寧に説明します。

正座をし、姿勢を正し、てのひら掌をそけいぶ鼠蹊部(太もものつけね)に、手先を内向けて下腹に接するように置き、肘を真横に張ります。

掌に力を入れず軽く肘を横に押し出します。頭頂が天に向かって伸び、肋骨が高く背筋が伸びていれば、肩が左右に張れ、肩が楽に下がり肩甲骨が下がり締まってきます。

この使い方をもっと多くの場面で実現するには、上腕骨の方向を意識します。肘を少し曲げておくと分かりやすいのですが、上腕が下を向いていようが上や前を向いていようが、肘の向いている方向に上腕骨を押し出すようにします。そうすると、肘が上を向いていても肩が下がる、という感覚をつかむことができると思います。

このとき肩甲骨が下がり胸椎の上部が伸び、首が伸ばしやすくなり、声も楽に出るようになります。武士の正座の場合もこのような肘の使い方になっているということです。

声を出す場合だけでなく、楽器を弾く場合もこの使い方を研究すると手首や指が自由になる使い方を見つけやすくなります。

床にある重い物を持ち上げるときであれば肘を下げる方向に伸ばします。

色々な場面で試してみてください。



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