自分らしく生きる生き方そのものが人を健康にする

NVY-intro11

ナチュラル ヴォイス ヨガ入門 11

   2014年12月号 (No.183)

 沖先生の講演DVD「生き方の発見」を観ました。
DVDだから表情を見ながら聞くのですが、道場での講義や質疑応答を彷彿とさせ、
若い時の感情そのままに聞いている自分がありました。いつ聞いても沖先生の話はすごい!

 話の中に「来年には下田の道場が完成」という話題があったので、
多分昭和50年(1975年)の講演です。
「冥想ヨガ入門」が発刊され、第1回沖ヨガフェスティバルが開かれた頃、私が沖ヨガ道場に行きはじめて5~6年で、がむしゃらにヨガをやっていて、心身の変化も激しかった時期です。

 「己の悟りや救いを放下するんだ」 「自分が悟ってどうするんだ、自分一人の救いや悟り、そんなものはどうでもいい。他の救いと悟りに自分をどう捧げるべきかを考え実行するんだ~!」 
と、迫力のある言葉でした。

そこで私はと見れば、「痛いよ苦しいよ、もっといいところに行きたいよ」、と、自分が自分がの中でもがき苦しむ自分に訣別しないままここに来ている。

私だけでなく多くの人がきっとそうであることでしょう。縁なき衆生は度し難しということでしょうか、40年も前に何度も聴いた話を今頃、今更にすごいすごいその通りだと感心して聞いている訳です。

 でも、でもです! やはり、自分が、また「自分が」と言っていますが、
その自分の身体や心が楽にならないとそこにばかり気が行ってしまうのは仕方のないことです。

まずは体が調い、心が調い、呼吸が楽になって初めて、自分のエネルギーのより正しい使い方に思いを向けることができるのでしょう。
旧約聖書に出てくるヨブのように艱難辛苦の中でその苦の与え主の神を讃えるというようなことができるには、多くの人間は弱すぎるのでしょう。

ひょっとしたらバカで本当のことが分からないだけかもしれませんが。 いずれにせよ、自分がその気になってその中に飛び込むだけの呼吸の広さ深さ、そして余裕がなければできないことです。

そのわ分かれ道に来たと思った時どちらを選ぶか、此岸(しがん)か彼岸(ひがん)か、ゼロか100か、それだけなのだと沖先生は言っているのでしょうか。

でも人の捉え方も取り組み方も様々、それこそ沖先生の言うように百人百様、

50や80、2や3のパーセントを選ぶ人もいるということでしょう。ヴェーダンタ哲学の一元論では、善悪も正否もない、すべては程度の差であるといいます。この見方で自分を見るとき初めて自分の置かれているところが分かることでしょう。

しかし、今の自分の選択が最終の目標ではないとしても、呼吸を深くし意識を広く保つことができるような心身能力を身につけ高めていくには前回お話ししたクムバク力を高めることが不可欠のことであるということは間違いありません。

 さて、ここで前回の続きのクムバク力の話に戻ります。
 
この力は決して呼吸法でしか身につけられないものではありません。

たまらなくいやな時、辛い時、心が後ろを向きそうな時、もうだめだと思う時、なにくそー、こんな自分に負けるものかー、やるぞーと、積極的になる、そのときには

「ムウゥゥゥ~」とお腹に力を込めています。いつの間にか腹圧が高くなっているのです。いや腹圧を高くしないとその辛さに耐えることができないのです。これがクムバク力です。

求めるところはゆったりとした呼吸ですが、ゆったりと生ぬるい湯につかっていては肚の力が抜け、結局はゆったりと出来ないのです。戦場の中にいてこそ養われる力があるのです。腹圧を高めなければ仕方のない環境に身を置くことが必要なのです。

現代の傾向は、楽して金を儲けたい、楽な勤め先はないだろうか、家事をもっと楽にする機械はないだろうかと、楽をすることばかりを考えています。

子どもなら、運動部で小突かれれば暴力扱い、ちょっといじめられると親が出てきて、いじめに耐えたり撥ね退けたりする力を養おうとする姿勢はありません。

問題が起きたときに耐える力があって初めて心を平静に持っていくことができ、頭を冷ましてこそその問題を解決する糸口や力を見つけることができる。

しかし、現代はなにもかも自力で解決できない子どもと大人が増えている。楽をすることばかり考えるからそうなる。

辛そうに見える環境の中で平然とゆったりと生きる。これが禅的なヨガ的な生き方なのです。そのような環境になければ、結局心が安定し、深い喜びを得ることもないのです。

前回はクムバク体操のやり方について書きました。
これはどんどんやってクムバク力を高めていただきたいのですが、よりよいやりかたができるよう、肚の充実感と相対した問題として胸について考えてみましょう。

肩や首の力を抜き、上体を楽にすると肚に力がこもりやすくなるのですが、このような状態を上虚下実と呼んでいます。

この「実」は詰まっていることであり、「虚」は空っぽのことです。

上体の力を抜いたように見えても、胸が下がり肋骨が萎んでいる時は「虚」になれません。容れものが大きく広がっていてこそ、中が空っぽの「虚」になることができます。

容れ物が萎むと、中は詰まってしまい、いくら力を抜こうとしても伸びやかにはなれません。ただ胸を胸の力で高く上げようとするとこれも「実」になりますが、背筋が伸び頭頂が天を突くように伸びることで、肋骨が広がり胸が高くなり、肚に力がこもり、上虚下実の状態を実現しやすくなります。



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