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沖ヨガの継承2

沖ヨガの継承-その2

NVYナチュラル ヴォイス ヨガ 入門 - 62
トータル ライフ デザイン機関紙 「和気愛会」2019年4月号より)

沖先生生誕100周年記念に思う に書いた内容を転記

 私にとっての沖ヨガは、先生と接して直接受けた影響が一番多く、道場での各種行法で学んだことは心に身体に浸み込んで今もそのまま残っています。ですが、頭から入ったことも多くあり、道場での講義や質疑応答、また講演会で聞いた内容、そして書物から受けとった内容と、難解な哲学的宗教的な問題をスパスパと斬るように平易な言葉を使って表現されているのを感心感服していました。残された書物を今読んでもその思いは変わりません。
 
 先日、「沖先生の教えを長く残したいと思われている方々なら誰でも参加していただく・・・」と、「沖先生生誕100周年記念」のイベントの案内が送られてきました。

 沖先生の教えを残す、というのは私のライフワークでもあります。1985年に沖先生が亡くなってすぐ、有志が集まって「国際総合ヨカ゛日本協会」の下部組織としての関西連合会を結成した時、また、一度活動休止していた沖ヨガ道場が再開するときの責任役員を引き受けた時、どちらも沖ヨガを残すためという強い思いがありました。現在の私の活動にもその思いは強くは反映しています。当時、そうしたグループの中では他の方と沖ヨガについて話す機会も多く、古くからのメンバーはみな沖ヨガの存続という課題を自分の中に持っていました。しかしその方法についての思いは人それぞれ結構違いがありました。 

 沖ヨガを残すということについての私の考えはこの会報上で連載したこともありましたし、今もその思いはとても強いです。しかし、その考え方は歳と共に変化し、現在ではだいぶ違ったものになっています。それをうまく言葉にできるかどうかわかりませんが思いを書き出してみます。
太字は、木村の記憶している沖先生の言葉です。

 まず、沖ヨガという言葉から私が何を思うか、それは沖先生自身の言葉です。

 「俺が死んだら沖ヨガはない」ということを常々言われていました。確かにその通りなのでしょう、形ある沖ヨガというのは沖ヨガ道場があり沖先生が指導していてこその沖ヨガです。

 でも沖先生はこうもよく言われていました。それは、「俺の言っていることは100年後200年後にならないと理解されない」ということでした。ですから、当然何らかの形で残る、または残すということを考えておられたのでしょう。

 間違いなくそのまま残るのは著作であり、この会報で紹介しようとしている、沖ヨガ道場が発行していた月刊誌「求道実行」や何十冊もの著作です。

 しかしまた沖先生の言葉を借りれば、「本に書いたのは嘘ばかりだ」とも言われていました。この言葉の意味も残すべき大切なことの一つであることでしょう。

 さてそれでは私自身は沖先生から何を学んだのか、そして何を得たのか、毎月この紙面に記事を書くたびに自問自答していることです。

 私が先生から学んで得たことの一番は、先生の物事に対する姿勢、根本的な考え方を学んだことです。 そこでもう一つよく言われていた言葉を思い出しました。

俺は原理原則を説いているんだ」ということです。
 自分が何を学んだのか、それはここに鍵がありました。先生の説かれる原理原則を自分の中で反芻し、それを自分の人生に応用すればそれはどういう意味をもつのかそしてその 原理原則に照らせば世の中のこと、自分のこと、健康のこと、幸福のことはどのように見え、またどのように生きるべきなのか。 そしてヨガをやるとは、沖ヨガをやるとは、・・・と毎日そのことばかり考え、それを実際の生活の中でその意味を問う生活を何十年とやってきました。

 そのおかげでしょう、最近は随分頭がすっきりしてとても気分よく生きることができています。 そうです、大切なのは自分が生かされている、生きる、活かすということ。生命の使命は生きるということ。その大原則に沿って生きるということに向き合うことが一番大切なことなのだ、そしてそのために「宗教」がある、と沖先生は言われています。

 宗教の「宗」は「根本」という意味だ、宗教とは生きるための根本の教えだ。しかしヨガは密教なのだ、密教とはその教えを教えてもらうのではなく自ら体得するものなのだ。と、これも耳にタコくらい聞かされたことです。

 大切なのは原理原則であって、それにそぐわない考えや行動は決して自分を自由で温かい世界に導くことはない。そしてその原理原則そのものも自分の中で導き出したものでなければ意味がないということです。

 沖先生から教わったとしても、その原則を自分のものにしない限り、どこかで人の頭や成果をそのまま自分のもののようにして導いたとしたら、その結果は決して自分のものではない。

 まずは、生命即神、生命(いのち)が神だ、生命は 間違わない、嘘をつかない、生命の声は気分である、生命にきけ、そして、体験せよ、信じるな、疑うな、確かめよ、俺の言うことも信じるな、疑うな、実践せよ、人の頭を借りるな、自分で体験し自分の頭で考えよ、俺の教えたことをそのまま伝えるな、実践・体験して自分のものにしたものだけを伝えよ、人まねは 泥棒だ、おまえらはもらうことばかり考えている。 生かさせていただいているご恩返しの生活をせよ。 愛とは、相手がよりよく生きることに協力すること。 道を求めよ実行せよ、バランスをとれ、ヨガとはバランスのことだ。

 このような、あまり具体的でない教えを自分のものにしようといつも沖語録を頭に置いて行動していたおかげで、他に 依らず自分独自の考え方と実践法を生み出すことができたと思います。

 結局、沖ヨガをやるということはその原理原則を理解し、それにしたがって学び、自己教育をし、自己変革していくしかない。そうして自分だけの生命の悦びを得て生きるということなのだ。 沖ヨガを求めるなら誰もが同じプロセスを経ない限りそれを自分のものにすることはできない。

 もちろん誘導者が巧みであればより短い期間でより素晴らしいものを手に入れることが可能になるかもしれない。手伝えるのはその程度のことだ。沖先生がおられなければ、この原理原則の内容はおろかこれらの言葉にあるような方法論にも私は出会えなかったことだろう。

 百人百様だからこそ悟りの内容を伝えることはできない。 一人一宗、一人一人が自分の悟りを得なければ救われることはない。宗教とは人間が生きるための根本の教えのことだ、ヨガは沙門系の密教である、密教とは体験したことのみを自分のものとする教えのことである、釈迦やイエスはヨガの行者だ、仏教と釈迦の教えは別ものだ、キリスト教とイエスの教えは別ものだ、冥想とは広く深く感じること、感知力を高めよ、冥想の呼吸は笑いの呼吸を長~く引き延ばしたものだ。

 エネルギーも知識も自分に取り入れただけ出す、もらったら与えるのだ、救われるには救われる資格を身につけよ、自業自得、悟りとはちょうど良い時に、ちょうど良いことを、ちょうど良いだけできること、心・体・呼吸、これがヨガの三密だ、諸道諸芸のコツは呼吸にある、丹田を中心に動作せよ、出し切って生きろ、出し惜しみをするな、全力発揮で生きろ、背水の陣で生きろ、積極心を養え、積極的に生きるんだ、積極心というのは物事の良い面を見て良い解釈をする心のことだ、お前らはなんでも悪い面ばかり見て悪いように解釈をする専門家だ。良い解釈をする練習をせよ、足の親指に力を込めよ、肛門を締めよ、顎を引け、肩を下げ肩甲骨を下げて締めよ、丹田に意識を置け、少食・少眠・多動・多考、食欲不振を大切にせよ、食べたら出す、エネルギーも知識も自分に取り入れただけ出す、もらったら与える、体験を増やせ、適応力を高めよ、全てのことを科学的、哲学的、宗教的に観なければ本当のことはわからない。
 
 私の頭にすっと浮かんでくる言葉を挙げてみました。きっと他にもたくさんあったことでしょう。
 結局、沖先生の言葉をたどればたどるほど、この“体験を伴って初めてわかる難解な事柄”を残すのが沖ヨガを残すということになります。

 楽をしてエッセンスだけを欲しがり、自分の頭を使わず、他に責任を押し付けて生きる人の多いこの現代にあって、このような沖先生の考えを広く理解し体得してもらおうと考えるのは無謀なことなのかもしれません。でも、沖ヨガと呼べるものはこれしかないと今の私は 考えます。

 具体的には、そのような姿勢で生きる人を一人でも二人でも増やす、沖先生がされたように、と言っても沖先生と同じことはできないのですから、その原理原則を自ら体得した人がそのことを自分なりに伝えていくことが沖ヨガの伝承になる。 私のやり方でいうなら、「これは沖先生に習ったことなんだ、でも俺はこのことを自分の身体で心で魂で 体得してきたんだ、お前もやってみろ」ということしかないのだと思います。

 私には沖先生が詳しくは残されていない声というジャンルの研究と実践を通じて、沖先生には及ばずとも私なりに得た、生きる・活かす道を伝える、沖ヨガを残す、ということの 一端を担えるのではないかと思っています。



  → 沖先生の思い出

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