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周平の沖ヨガ読本(11)

周平の沖ヨガ読本(11)



 - 沖ヨガとは-5 -   2013年8月号(No.167)

沖先生は何を伝えたかったのでしょう。伝えたいこと、伝えるべきと思ったことを心ゆくまで表現されたのでしょうか。

沖先生の言葉や振る舞いを見ていると、お前らにはわからん、伝えようがないという風に映ったのですが・・・。

これは沖先生に接した人たちそれぞれに考えが違うかもしれませんが、私なりに思うところをぽつぽつと書いてみます。

講義や質疑応答などで、いくつかの宗教の聖者をよく取り上げ、彼らこそがヨガの行者であった、といわれ、世の中に浸透しつつあるヨガと自分の説くヨガを区別され、また、人が救われるためにこそヨガが必要であり、救われるためには資格が必要だといって、人間が救われる必要のある存在であることを前提に、現在ある宗教の多くを批判または否定していたように思います。

そして「おれはガンジーの農場をモデルにこの道場を作った。」といわれ、まず道場生活を通して、自分の体と心で実際に体験し、生命や健康についての誤解や思い込みを捨てなさい。体験したことのみが真実である、といわれていました。

また、できるだけ多くの体験をすることが大切だといわれ、道場のプログラムもバラエティに富んだものでした。もちろん道場の中だけでなく、積極的に自分の体験を広げるような生き方をしましょうということです。

この紙面でも色々紹介してきましたが、道場では、小食・少眠・多動・多考、自業自得、因果応報、原因があって結果がある、救われるには資格が必要。

心も体も今あるのはそれまでの結果として存在している。今を変化させていけば心も体も変わる。感知力を高め、自然や生命の教えに従えば、心も体も無理から解放される。 人間としての心を養うには感謝懺悔下座奉仕愛行の実践が必要・・・などなどです。

沖ヨガは、いわゆる宗教ではないけれどとても宗教的です。このことは、それを理解しうる人にしか言いません。やっぱりヨガはオームか、などと余計な誤解を招きかねないからです。

でも、この宗教的なところこそが沖ヨガの沖ヨガたるところであり、本物である要のところでしょう。

本来の宗教というのは、訳のわからないことをただ信じなさい、思い込みなさい、というようなものではありません。鰯の頭も信心からとか、教祖のいうことを信じないと・・・などという言葉は、支配者や詐欺師が言うことを聞かせたり金を出させるため、自分の都合のために使う似非宗教であって、宗教を真面目に考える人間には軽薄で侮辱的な言葉です。

たしかに、思い込めば仁丹でも治る病気があるそうですから、ご利益的にはそれなりの意味があるのかもしれません。しかし、ご利益を求めるのは宗教ではありません。沖先生はそれを「汚らわしい」といわれていました。たしかにそのとおり、自分の責任に帰すべきことを神様に代わってくださいというのは厚かましいことです。

宗教の宗は宗家の宗と同じ意味で、「おおもと」とか「根本」を指す言葉ですから、宗教というのは根本の教え、生きるための根本の教えという意味であって、○○教、××教が宗教ではない。と沖先生はよく言われていました。

人間が心も体も魂も、みんなすべて解放されて生きたいという願いを実現するために必要なことは決まっている。多くの人間はそれを求めて右往左往してしているけれど、実際にその境地を実現できた人にとっては、そうじゃないよこうするんだよ、と声が大きくなるのでしょう。そしてそのために必要なことを説くことを宗教と呼ぼうがヨガと呼ぼうがどちらでもいいことです。 ヨガではそのことを、どのようなタイプの人がどのような方法でやろうが一番究極のところまで行けるような広範な指針を具え、明確に示しているということだと思います。

《誓いの言葉》の中の《宗教心体得の誓い》では、

宗教とは、一番大切な教えのことであります。私たちにとって一番大切なこと、それは生きることであります。生命すなわち神を、大切にすることであります。私たちは生きるために生まれてきたのであります。生きることが目的であり、意味であり、価値であり、使命であることに、気づかさせていただきました。宗教心とは最上の生き方の工夫と努力をすることであることを、自覚させていただきました。ただ今からの私は、あらゆることを通じて、正しい生き方の工夫と実行をさせていただきます。とあります。

これが沖先生の説かれた宗教の意味なのでしょう。そして現在の仏教とお釈迦様の教え、現在のキリスト教とイエスの教えとは別のものだ。ヨガは総合的である。その総合的なヨガを行じられたのがお釈迦様だ、イエスキリストだ、マハヴィーラだ、ガンジーだ、ともよく言われていたことです。

また、哲学的、宗教的、科学的、この三つがそろって初めてヨガだ、とよくいわれていましたが、それなら、色々な宗教のよいところや考え、色々なノウハウ、色々な理論それらを混ぜ合わせればヨガになるのかというと決してそうはなりません。

多くのことを集めるのではなく、一つのことを多角的に見る。いや、見るだけでなく触って食べて、味わって、その本質を哲学し、科学的に分析もする。そして遠心的な分析をするけれど、求心的な全体把握もする。ヨガは寄せ集めでではなく芯になる哲学がまずあり、科学的に捉え、その上にそれを宗教的にも解釈して実践する。そのようにやった時にヨガをしていると言えるのだ、ということなのです。

まあ、真剣に自分の生き方を考えれば、先人が声を大にして言っている宗教やヨガを避けて通ることはできないことでしょう。私も沖先生が大きな声で言われたことに引っかかってそこを追及して生きたいと思うようになった。という大変ありがたい御縁をいただきました。

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