自分らしく生きる生き方そのものが人を健康にする

周平の沖ヨガ読本(10)

周平の沖ヨガ読本(10)



 - 沖ヨガとは-4 -   2013年7月号(No.166)

先日、NVSでヨガについて語りだしたら止まらなくなって、2時間ぶっ通しで語ってしまいました。

NVSはナチュラル ヴォイス セミナーの略で、私の自宅で毎月一回開催している声のセミナーです。

「声の実験的セミナー」と副題をつけていて、私の実験であることを承諾して付き合ってくださる方が参加しています。

とはいうものの、実験に終わって失望させたことはまずありません。心と体と呼吸と声、その新しい体験をしてもらい、参加者が自分への驚きを持たないことはかつてない(多分)と自負はしており、個人指導に近い内容を格安で受講できるセミナーです。

でも2時間講義を聞いている人はどんなだったでしょうね。もちろんその後、定時をオーバーして1時間以上、声と呼吸と体のワークによる生命の喜ぶ体験をしていただいたのはいうまでもありません。

でもこの話している2時間のうちに、話が佳境に入るほど自分の中にジレンマが生じていることに気づきました。

これまでも最近はときどき似たことが起こっていて、ヨガのセミナーの最中に言葉が出なくなってしまう、止まってしまう、説明ができなくなってしまう、ということが時々あったのです。

そんなときはきっと同じジレンマが言葉を止めてしまっていたのだと、今回は気付いたことでした。

『自分の中の感覚、喜びや生きがいや憧れなど、生きるということについて根幹をなしているところが、体の使い方や呼吸のあり方と大きく関係している。』、いや、関係というより、『呼吸や体の使い方そのものが心そのものであり、その使い方が喜びを生み出している。』

というような内容を、今からやろうとしている呼吸法の前に話し始めます。呼吸はただの呼吸ではない。呼吸の結果として、その効用として何かが起こるのではない。

(確かにそういう面もあるが)それよりももっともっと大切なことは、その呼吸の形、その体の使い方そのものが喜びの形であり、生きがいの形である、ということなのだ。いくら頭で喜びとは、幸せとは、生きがいとはと考えても何の答えもないはずなのだ。だってそれは状態であり、結果ではないから。……

まあ、そのような状態で、それまで滔々(とうとう)と話していたのに、突然口からか頭からか、言葉が出てこなくなるという状態になって、あ、又だ、という感覚が生じてきました。でも今回はその理由がその時に分かったのです。

それは、私が言いたいことを沖ヨガとして解説をしようとしているということに、その原因の緒があったのです。

今回は常連が参加せず、ずいぶん古くからのメンバーだけれど久しぶりの2名だけ。二人とも心の問題がありそう。心の問題というのはどこにでもあるし誰もが抱えているものだけれど、その問題が自分を委縮させたり壊したりする場合はなんとかする必要がある。

問題を解決する、または、問題を問題のまま元気で生きる。問題だけれどそれで心がつぶされないで生きる、というように、それに対処して生きる力や心の安定力、そしてそれらの基になる悟りが必要になる。そしてこれにはヨガがその解決法、必要なことをちゃんと提示してくれている。

それはヨガというのは入門からゴールまで、目に見える世界から見えない世界まで、ある統一された体系の上に人間のあるべき姿を説いているからです。

ある意味、まともな人間だからこそ心のジレンマで苦しんでいる。世の中で生きるのにジレンマも生じないほど、世に飼いならされてしまっているのか、それとも見てみないふりをすることが上手になったのか、それとも、ジレンマを見つめてなお自分を生かし上手に生きる達人になっているのか。

この最後のような人はあまりいない。多くの人が飼いならされ、頭も心も既製品に近づけることで楽に生きることを選んでいる。でもそれのできない人の多くはジレンマに苦しむことになる。だって世の中は狂って捻じれて間違っているから。おおかたの価値観は、本来の人間の生命を伸び伸びと生かし、生命を謳歌できる、というようにはなっていない。その人間たちの中で生きるのだから当然ジレンマがある。ヨガの世界だって例外ではない。ヨガは「生命の喜び」を謳うが、その喜びを真に求めてそのように生きようとする人はヨガの世界にもとても少ないように見える。

話が脱線してしまいました。彼ら二人にヨガってなんだろうと私の思いを伝えようとするのですが、そこには私の別なジレンマが存在しました。

それは私自身の感覚を伝えようとしているのに、それを沖ヨガとして伝えようとしていることでした。

このコーナーで前にもお話したことですが、沖ヨガは沖先生のヨガであり、沖先生の求め方であり、沖先生の一人のものなのでしょう。沖先生の説かれたことを規範に生きてきたとしても、やはりあるところまで歩いたら自分の道を選ぶしかなくなる。たしかに沖先生の生き方は面白いし素晴らしい。憧れもある。でも、自分が求めて求めて歩いて行って、ふと立ち止まってみると、結構離れたところにいる。それは高い低いでもないし、あちらとこちら、彼岸と此岸でもない。まったく別なアプローチなのだ。

もちろん、私の沖ヨガというものへの勝手な感じ方や解釈の仕方があるから感じるジレンマがあるのかもしれません。

それでもとにかく、沖先生が亡くなられた年齢を超す歳まで自分が生きてきたのだから、そんなこともあるだろう。決して超えるわけではないが低いのでもない。あるのはここにある私自身の生の喜び・豊かさなのです。

     → 次へ 

  → 周平の沖ヨガ読本(1) -  ヨガの喜び -
  → 周平の沖ヨガ読本(2) -  自律神経 -
  → 周平の沖ヨガ読本(3) -  感知力 -
  → 周平の沖ヨガ読本(4) -  感知力 2 -
  → 周平の沖ヨガ読本(5) -  和らぐ -
  → 周平の沖ヨガ読本(6) -  沖ヨガの継承 -
  → 周平の沖ヨガ読本(7) -  沖ヨガとは -
  → 周平の沖ヨガ読本(8) -  沖ヨガとは-2 -
  → 周平の沖ヨガ読本(9) -  沖ヨガとは-3 -
  → 周平の沖ヨガ読本(10) - 沖ヨガとは-4 -
  → 周平の沖ヨガ読本(11) - 沖ヨガとは-5 -
  → 周平の沖ヨガ読本(12) - 沖ヨガとは-6 -
  → 周平の沖ヨガ読本(13) - 沖ヨガとは-7 -


  → 周平のヨガ記事に戻る

powered by Quick Homepage Maker 4.91
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional